2018年5月2日水曜日

社会問題を社会の学習のスタートにする

久しぶりに授業のこと。

小学校の3、4年生の社会科では身近なことから社会的なことを学んでいく。
例えば水の学習。
教科書に沿った学習の順番だと、まずは自分が日々の生活のどのような場面で水を使っているかを調べることから学習が始まる。
その後、生活にかかせない水がどのような仕組みで届くのか、また使った後の水がどのように処理されていくかを学習していくことになる。
身の回りの生活を出発点に学びを始めていくことで、学習内容を身近なものと捉えることができ、子どもたちの学習への意欲が増すとされている。

本当にそうだろうか。

ここ、2年間、3,4年生の社会科を受け持っている。
冬休みには、両方の学年の子どもたちに、新聞記事をはじめとしたニュースのレポートを課すことにしている。
休み明けにそれを読み合う。
子どもたちの選んでくるニュースは実に様々だ。
決して、子どもたちの身の回りのことばかりが選ばれるわけではない。
いや、むしろ、子どもたちは、この世界で今現在起きている本当の問題をとりあげて、それについて自分の感じたこと、考えたことを生き生きと書いてくる。
解決していない問題だからこそ、考えたくなるのだと思う。
それはきっと子どもも大人も関係ない。

だとしたら、学習だって、身近なことからスタートするのではなく、あえて実際に現在世界で起きている解決できていない問題をスタートにすることによって、子どもの考えたいという意欲が生み出されるのではないだろうか。

そんなふうに考えて、今年の水の学習では、最初の授業で、世界各地の水不足の地域で活動するNPOのビデオを見ることにした。
アフリカの女性が、家族のために毎日8キロの道のりを20キロの水を頭にのせて往復するシーンが映し出される。残念ながら、そうまでして手に入れた水が決してきれいな水ではないのだ。
ナレーションで、きれいな水が手に入らないことで命を落とす乳幼児が多いということが話される。
子どもたちは実に真剣に画面に見入り、ナレーションをよく聞いていた。
10分弱のビデオが終わると、「もう1回見たい!」という声があがる。
その声に応えて、もう一度見せる。

それはたった1回の授業で、その後は教科書の流れに沿いながら、授業を進めている。
でも、子どもたちの意欲は、これまでの身近なことから始めた学習に比べ高いように感じている。
なぜなら、蛇口をひねると水が出る仕組みを学ぶことが、あのビデオで見た人たちを救うことにつながるかもしれないと子どもたちは考えているからだと思う。
実際に授業では、「沈殿の仕組みを、あのアフリカに作ればいいんじゃないか。」など、ビデオの内容をふれる発言が見られる。

身近なことも、実際に調査がしやすく、それを否定するわけではない。
ただ、現在起きている問題をしっかりと子どもたちに提示することには大きな意味があると考えている。
それは、繰り返しになるが、解決していない問題だからこそ、考えたくなるからだ。
子どもたちも僕たちも世界を構成する一員であり、すなわち、世界が抱える問題を解決するための一員とも言えるからだ。
その感覚を子どもたちは実直に持ち合わせているように思う。
(授業者である僕もそれを感じている。子どもたちと、社会問題をどう解決していくかを考える時間はとても楽しい。)

今年はカリキュラムと社会問題をからめながら学習・授業を進めていきたいと考えている。

2018年3月19日月曜日

大切な弟、妹たち バングラデシュのこと④

これまで3回バングラデシュのことについて書いてきた。
本当は1回で書き切るつもりだったんだけど、思い出すと、想いがあふれ出してしまって、どうしても長くなってしまう。
今から15年前、22歳の時の旅。
自分にとってとても大切なことなんだと思う。


これまで書いてきたこと
第1回 「初めてのバングラデシュ」
第2回 「チッタゴンヒル子ども基金」
第3回 「笑顔の美しい少女」


モハルチョリで焼き討ちにあった村に行ったこと、それからそこで暮らす人たちを見たことは大きなショックだった。
自分とはまるで違う日常を過ごす人たちを目の当たりにした。
そしてシュンドリと出会った。
彼女は笑っていた。
それは素敵な笑顔だった。
それが余計に胸を締め付けた。

僕はここにいていいのだろうか。
もっと確固たる何かがあってこそ訪れる場所だったのかもしれない。
どうしていいか分からなくなっていた。

シュンドリの住む村を出たバンは、この旅のもう一つの目的地へと向かっていた。

山道をバンは走る。
道のあちこちに、軍のキャンプが見える。
小さなものだが、そこに銃を携えた兵士が見える。
これだけの数の軍のキャンプがあっても、この場所に平穏は無い。

バンの車窓からは、ベンガル人の住む家も見えた。
それは道沿いに急に現れた。
本当に粗末な家だ。

ジュマから土地を奪おうと新しくこの地に入ってきたベンガル人たちは、みな貧しく見えた。
身体は痩せ、たいていもっと痩せた子どもを連れていた。
そういえば、この土地に入ってくる人たちは、都市のスラムに住んでいたような人たちも多いと聞いた。
首都ダッカにはいくつかの有名なスラムがある。
「ダッカ スラム」と検索すれば、すぐにその様子は見ることができるだろう。
その光景は、あまりに悲惨だ。
貧しい田舎の村よりもずっと、都市のスラムのほうが目をそむけたくなるような、苦しい貧しさが渦巻いている。
そう、ジュマから土地を奪おうとする入植ベンガル人たちも、生きるために必死なのだ。

山道を走り続けるバンから見えるそんな風景に、僕はもう考えることを放棄したくなっていた。
何のために僕はここにいるんだろう。

途中で、車を乗り換えた。
ぼろぼろのジープのような無骨な車に荷台がついている。
急な坂道には、うなりながら登っていく。



ようやく着いたプルナジョティは、小さな小さな村だった。
茶色い乾いた山道と周りは緑の木々に囲まれた場所。
下り坂に挟まれた道路の途中から、細い道が伸びていて、車を降りてそこを登っていく。
道の脇から小さな青い服を着た小学校低学年くらいの子どもたちがのぞいている。
「ジュージュー。」
土地の言葉であいさつをすると、ちょっと驚いた表情を浮かべ、そして、しばらくあとに笑顔になった。
距離を測っているのか、様子をうかがっている。
かわいらしい。



細い道を登りきると、小さな広場に出た。
正面にはトタンでできた簡素な寺院。
寺院の両脇には、トタンの屋根に木の皮の壁でできた建物が2つ並んでいた。

長い移動時間の疲れをうったえると、お寺のお堂の脇の小さな部屋に通してくれた。
ベッドがひとつと窓がひとつあるだけの4畳ほどの部屋だ。
壁の小さな窓からささやき声が聞こえる。
手に花束を持った女の子がのぞいていて、窓枠のすきまからそれを差し出してきた。
きれいな花束だった。


ここが、プルナジョティ。
日本で会ったセカさんが、居酒屋でバイトして稼いだお金で建てた寺子屋だ。
小学生にあたる65人が寄宿しながら過ごしている。
親がいない子もいるが、それだけではない。
貧しいこの村では、小学生の年になると、もう立派な労働力と見られる。
寄宿舎にし、衣食住を保障することで、ようやく親は子どもを学校にやろうと考えるのだという。
だから、この学校にいる子どもたちは、学べることを喜ぶ。

そこで、4日間過ごした。
それはおだやかでやさしい時間だった。
ニワトリが高らかに鳴く声で目が覚める。
部屋から広場に出ると、寄宿舎から出た子どもたちがドラム缶のたき火に集まっている。
村の大人も何人かいて、会釈を交わす。
人懐っこいミタリが僕に近づいてくる。
ミタリを抱っこすると、他の子たちも抱っこをせがんでくる。
日本の子どもたちといっしょだ。
違うのは、彼らが一様に痩せぎすなことか。
抱っこをする手に、あばら骨があたる。
顔を洗いに、坂を下って、道の向こうにある井戸にいく。
子どもたちがついてくる。
デボラニが井戸から水を出してくれたので、それで顔を洗う。


朝ごはんは昨日の残りのダールという豆カレーとごはん。
ごはんは大盛り。カレーは小盛り。ごはんでおなかを満たす。
朝ごはんを食べたあとは、鬼ごっこをする。
「アミ ベンガルタイガー!(俺はベンガルトラだぞ!)アミ トマケ カボ!(お前を食べてやる!)」
正しいかは定かでない怪しいベンガル語をさけびながら子どもたちを追う。
笑い声をあげながら子どもたちが逃げ惑う。
シュンドリ(あの村の女の子と同じ名前だった)はこれが大好き。
朝の冷え込みが嘘のように暑くなるから、すぐにばててしまう。
「ベンガルタイガー!」子どもたちにせかされて、重い腰を上げてまた追う。


昼過ぎに市場へ行った。
田舎の小さな市場では、イスラム国のバングラデシュでは初めて見る豚肉が売られていた。
生きていたときのそのままの見た目で売られている豚肉をいくらか買っていく。
ハエがたかっているけれど、このころはもうそんなこと気にならなくなっていた。
子どもたちと食べたい。

市場ではロープも買った。
プルナジョティに戻り、子どもたちに大縄を教える。
縄を回さずに、地面で行ったり来たりさせる大波小波でも大興奮だ。
その様子にうれしくなる。


電気がきていないので、夜はランプの明かりが頼りだ。
子どもたちが教室でもあり食堂でもある場所に集まる。
いっしょに食事をとる。
右手でカレーとご飯を混ぜる。
豚肉は、日本のものとはまったく違って脂身が固く、かみきれない。
味は悪くない。ただ固い。皮を噛んでいるみたいな感じ。
でも、おいしい。
隣の子に笑いかけると、彼女もうれしそうに笑う。


指で歯をみがいて寝る準備をする。
マラリア蚊がいるので、蚊帳に入る。蚊帳には3人くらいの子どもが一緒に入る。
狭い部屋なので、体を寄せ合っている。
それがとてもかわいらしい。
遠慮がちだったことが嘘のように、笑いかけてくる。
日本語で「おやすみ」と言う。
伝わるはずはないのに、何か言葉が返ってくる。
きっと彼らの「おやすみ」だと思った。


プルナジョティでは、とにかく子どもたちと過ごした。
それは幸せな時間だった。
どうしていいか分からないままここに来たが、僕は彼らと過ごす時間がとにかく楽しかった。
彼らもまた楽しそうだった。
だから、お別れのときが来たとき、「アバールデカホベン!」と大きな声で行った。
「また会いましょう」という意味だ。
自分に何ができるかは分からなかった。
でも、この子どもたちにまた会いに来たいと思った。



彼らもまた暴力にさらされていた。
この地域もまた、入植者による暴力が日常にあった。
それでも、子どもたちは笑顔だった。
悲しい現実に慣れている子どもたち、僕は彼らが好きで好きでたまらなくなった。
助けなきゃいけない、そういう使命感ではなく、大好きな彼らの力になりたい、また会いたい。
そんな気持ちが芽生えていた。

日本に帰ってから、チッタゴンヒル子ども基金の活動を通じて、彼らの寺子屋を支援した。
そこに集まる人たちから刺激的に学んだことは書ききれないほどある。
また、何度も彼らに会いにいった。会うたびにミタリやシュンドリは成長していった。
新しい子どもたちとの出会いもあった。
やっぱり悲しい現実を何度も目の当たりにした。
20代の大切な記憶だ。

その後、電気、ガス、水道も無い辺境の少数民族の寺子屋から大学にすすんだ子が出た。
村の寺子屋だったプルナジョティは、今は国の認可を受け、支援がなくとも運営ができるようになっている。
2003年
2010年

でも、彼らを取り巻く環境は、あまりよくなっていないようだ。
もしかしたら悪化しているのかもしれない。
問題の根源は解決されないままでいる。(http://www.jummanet.org/

僕は、自分自身の状況の変化から30代になってからは現地に行くことができていない。
子ども基金の活動も、実は悔やむことも多い。
後ろめたさから、今まで振り返ることをどこかで遠ざけていた。

でも、こうして振り返ってみると、本当に自分にとって大切なこと(思い出とは書きたくない)だと気づく。
彼ら、彼女たちが自分にとても大切な人だと思う。
支えていたつもりが、彼らの存在に助けられていた自分に気づく。

うまくまとめられないんだけれど、ここでいったん、バングラデシュのことを書くことは一段落にしたい。
チッタゴンヒル子ども基金のワイルドなお兄さんたちの話や、成長していく子どもたちの話とかもっとたくさん書けそうだけれど、新しい話ができることをめざしたいとも思う。

ずっと読んでくださった人、どうもありがとう。
誰かに知ってもらいたかった話でした。

2018年3月7日水曜日

笑顔の美しい少女 バングラデシュのこと③


写真の少女の名前はシュンドリ。
ベンガル語で美しいという意味だ。
その名の通り、かわいい笑顔の少女だった。
この笑顔の少女が、15年近く経つ今でも忘れられない。
それは、心が握りつぶされるような痛みを感じずにいられなかった笑顔だったからだ。

15年前に書いた旅のメモを頼りに、あの時のことを書き記したい。




大学でのワークキャンプをきっかけにバングラデシュに縁を持ち、就職してから再びボランティアを始めた。
バングラデシュのチッタゴンヒルの寺子屋支援を目的とする活動だ。
仲間と集めた支援金を持ち、いよいよ実際にチッタゴンヒルに旅立つ日がやってきた。

旅立つ前に、この地域が抱えている問題について自分なりに知ろうとした。

チッタゴンヒル、そこはバングラデシュの南東部、インドとビルマに隣接する位置にある。
バングラデシュは「山のない国」と言われるほど平野が多い国であるが、そこは例外で、ビルマのアラカン山脈に連なる丘陵地帯である。
国土の約10%の面積を占めるこの地域は、地理・歴史・民族・宗教・文化などすべての面において、人口の大多数を占めるベンガル人がくらす平野部と大きな違いがあった。
チッタゴンヒルに暮らすのは、ジュマと呼ばれる複数の少数民族から成る集団である。
浅黒く、ほりの深い目鼻立ちがしっかりとしているベンガル人にくらべ、ジュマの人々はモンゴロイドであり、その顔立ちは日本人にとてもよく似ている。
多くは熱心な仏教徒であり、この点でもムスリムであるベンガル人とは異なっていた。
英領統治時代には、この地域はジュマによる自治権が認められ、ベンガル人の入域は規制されていた。
しかし、1971年、それまで東パキスタンと呼ばれていた地域が独立戦争の結果バングラデシュとなるや、政府によるジュマへの迫害とチッタゴンヒルのベンガル化政策が始まった。
人口爆発を起こしている平野部の都市からチッタゴンヒルへ、ベンガル人の40万人入植計画が進められ、それに抵抗するジュマを抑えるために10万の軍隊が駐留することとなったのだ。
その結果、先住民族であった多くのジュマが土地を奪われていった。
それに対し、ジュマは武器を持って抵抗し、政府軍との長い内戦が始まることとなった。
政府軍は抵抗の報復として、一般の村民を襲撃、虐殺した。
拷問や女性への性的虐待は日常的に行われた。
恐怖に駆られた人々は、土地を離れ山岳を逃げ惑い、国境を越えてインドへ逃れた。
インドへ逃れた難民約七万人、国内難民十数万人、死者三万人と推定される。
このような暴力により、さらに多くの土地がベンガル入植者のものとなっていった。
1977年、ようやくジュマと政府の間に和平協定が結ばれ、戦争状態は終結を迎え、ジュマは武装を解除した。
しかし、政府は協定の柱である土地問題の解決と軍キャンプの撤収を履行しなかった。
多くの土地は入植者と軍隊に占拠され続け、行政権は軍が実質的に握り、現在も不法な入植者が途絶えることなく流入している。
こともあろうか、そのような不法入植者に対し、政府は食料の配給という支援を行っている。
ジュマの人々は恐怖の中で日々を暮らしている。

あまりに悲惨な状況だ。
そんなところに自分は今から行こうとしている。
正直、実感はわかなかった。
内戦や略奪、暴力。あまりに自分の日常とかけ離れていた。

首都のダッカから、深夜バスに乗り、2つある目的地のうちの一つ目、PBM(丘陵仏教伝道会)という寺子屋へ向かう。
朝方、寝ぼけ眼をこすりながら、迎えのおんぼろのバンに乗り換える。
舗装されていない道にバウンドしながら土煙を大きくあげ、バンは進む。
しばらくすると、バンが止まった。
やっと着いたかと、車から降りると、なんと大きな銃を持った2人の兵士にはさまれた。
バンの運転手が大声で兵士に何かを伝えながら、書類らしき紙を手渡す。
どうやらチッタゴンヒルの滞在許可書らしい。
チッタゴンヒルの奥地に外国人が入るには、警察の許可が必要だとは聞いていたが、まさか銃を携えた兵士に確認されるとは思わなかった。
自分が特別な地域にやってきたのだと分かり、眠気がいっぺんに覚めた。

第一の目的地のPBMは寺子屋という響きから想像していたものより、ずっと大規模であった。
地域の精神的リーダーである僧侶スマナランカールバンテが1980年代に始めたこの寺子屋には、その時小学生くらいから高校生くらいまで、180名ほどの子どもが学んでいた。
そのうちの半分の子どもは、片方もしくは両方の親を亡くしていた。
衣食住の世話をしてやらなくては、就学など考えられない子どもたちであり、この学校は寄宿制であった。

PBMで暮らす子どもたち

ちょうど子どもたちのお昼ご飯の時間ということで、いっしょに食べることにした。
子どもたち全員が食堂に集められ、昼食の時間が始まる。
今日の昼食は、少し苦い緑色の小松菜に似た葉が入った具が1種類だけのカレーが少々。
それから、これもちょっとの豆のスープ。
それに大盛りのご飯。
この昼食と、ほぼ内容の変わらない夕食、その2回の食事が、ここの子どもたちの1日のすべての食事であるという。
周辺住民の寄付や他国のNGOによる寄付でなりたっているPBMは慢性的な運営資金不足に悩まされている。
そのため食事は1日2回に限られてしまう。
そういえば、食堂を見渡してみても、太った子どもは一人も見当たらなかった。

野菜のカレーと豆のスープ

昼食後、若い僧侶に頼んでバザール(市場)に連れて行ってもらった。
僕は、今回こども基金に集められたジュマへの寄付のお金を預かっていた。
寄付のうち一部は、自分の判断で使っていいことになっている。
それを子どもたちの今日の夕食を豪華にするために使おうと考えた。
その考えを僧侶に話す。彼も賛成してくれた。
さっそくバザールで鶏肉を購入し、野菜を何種類か買った。
180人の夕食1回分の食材費は、日本円にすると、5000円もかからなかった。
それでも彼らにとっては、信じられないような豪華な食材だという。
なぜなら肉を食べられることは、年に数回あるか無いかのことらしい。
それを聞いて、まだ資金には相当の余裕があることを伝え、もう少し他の肉を買い足すことを提案した。
すると彼は「それはしなくていい」と答え、その後にこう続けた。
「贅沢の味を知ってしまうことは、子どもたちにとって、幸せなことではないんじゃないかな。」
僕は、自分の考えの浅さに情けなくなってしまった。
子どもたちはいつもより豪華な夕食、つまりカレーが2種類もあることに驚き、喜んでいた。
彼らが1度でも日本の食事を体験したら、いったい何を思うのだろうか。


バザール 商売はベンガル人がほぼ独占する

子どもたちにとっては豪華な夕食

夕食後、僕は自分が与えられた部屋に戻って休んでいた。
そこは彼らにとってもっとも重要な仏様が鎮座するお堂の奥に位置する小さな客間だった。
しばらくまどろんでいると、なにやらお堂のほうが騒がしい。
そっとドアを開けてのぞくと、PBMのほとんどの子どもがお堂に集まっていた。
PBMで唯一お堂にだけ置いてある、テレビを見るために集まったらしい。
100人を超す子どもたちが一つの部屋に集まり、14型テレビの小さな画面を寄り添いあって見ていた。
それは優しい光景だった。
テレビを見る時間が終わったのだろう。
電源が切られると、子どもたちは今度は一斉にバンテのほうを向いた。
静かに子どもたちに向けて話し始めるバンテ。
残念ながら話の内容は、僕には分からなかった。
ただ、バンテの話し方は、とても穏やかで優しく、子どもたちを包み込むようだった。

奥のほうにテレビがある

翌日、モハルチョリという場所に案内された。
4カ月前(2003年8月)の夜から、2日間に渡って、この地域のジュマの村10ヵ村が、ベンガル人入植者と軍隊によって襲撃された。
放火された家屋400軒、被災者2000人、2名殺害、女性へのレイプ10数件、行方不明者数名、そんな事件がおこった場所だった。
モハルチョリ郡の村に向かう途中には、たくさんの軍隊のキャンプを見かけた。
何度か車を止められて、身分証明を求められた。
和平協定では、彼らはこの地域から撤退することになっているはずなのに…
話が本当なら、彼らは暴力を抑止しているのではなく、むしろ加担しているのだ。

訪れたレムチョリ村では、ほとんどの家に火がつけられたという。
焼け跡の上に新たな家が建てられていたが、それは家と言うより、小屋と言ったほうがイメージが伝わる建物だった。
そういえば、途中立ち寄った、インドからの帰還難民を収容するディギナラ難民キャンプでは、8畳ほどのせまく家具も何もない部屋に2家族・計7人が暮らしていた。

村のあちこちに見える焼け跡

焼け跡に建てられた新しい家

事件から4ヶ月が経っていたが、どこもかしこも焼け跡だらけで、深刻さを物語っていた。
そんなひどい状況の土地を離れることも彼らはできない。
なぜなら他に暮らすことのできる土地はないから。
彼らは焼き討ちにあっても、そこで暮らし続けるしかないのだ。
村を回っていると、一つの焼け跡の前に村人が集まっていた。
一人の初老の男性が深刻そうな顔で話を始めた。
話によると、その焼け跡は寺院があった場所らしい。
ベンガル人入植者たちは、ジュマの人々の心の拠り所であった寺院を燃やし、仏像の首を切って、粉々にしたという。
興奮した様子で語っていた男性は、僕を見据えてこう言った。
「どうか寺院を再建してくれないか。」
僕は何を言っていいのか分からなくて、ただただ黙ってしまった。

仏像があった場所を説明する男性

このレムチョリ村を襲撃した犯人は一旦逮捕されたものの、すぐに釈放されたため、この村の人々は今でも悪夢の再現を怖がっていた。
村の見学を終え帰ろうとする僕を、村の人々が囲んだ。
口々に僕に話しかけてくる。
「この村を救ってくれ。お前は日本人なんだろ?」
真剣な顔で嘆願してくる人々の眼差しがつらかった。

次に訪れたバフパラ村では、もの珍しさからか、一人の女の子がちょこちょこと僕の後を着いてきた。
名前をシュンドリ(美しい)という、名の通り、かわいい笑顔を絶やさない子であった。
うれしそうに僕にベンガル語でしゃべりかけてくる。
ほとんど分からなかったけれど、シュンドリの笑顔に誘われて、僕も笑った。

いつの間にか前を歩くシュンドリに連れられ、彼女の家に行った。
そこは4ヶ月前の事件を鮮明に想像できる有様であった。
このバフパラの村は、ジュマの中では裕福な人が多く、シュンドリの家もそうであった。
そのため、一般のジュマの家が厚い木の皮であまれたシンプルなものであるのにくらべ、シュンドリの家はコンクリのようなもので作られていた。
この村を襲った入植者たちは、村の家々に火をつけたが、焼け落ちなかったシュンドリの家は、そのかわり中の家具をめちゃくちゃにされていた。
本当にすみからすみまでをめちゃくちゃにされていたのだ。
シュンドリの家の中には壊れた家具の残骸が今も残っていた。
まさか、こんな笑顔の子の家がこんなになっているなんて。そんなこと想像していなかった。



ぼろぼろにされたシュンドリの家

家の外では彼女のお父さんが、残った家具の木々を集めて、新しいベッドを作っていた。
彼女はお父さんを指差し、僕にうれしそうに紹介してくれた。
言葉がやっぱり分からなかった。この時、彼女は何と話していたのだろう。

バフパラ村を出発するバンを、シュンドリはいつまでも笑顔で手を振って見送ってくれた。
焼け焦げた家の前で。

シュンドリは焼き討ちの日、どこへいたのだろうか。
恐怖のまま逃げていたのだろうか。
憎悪のかたまりのような、迫ってくる略奪者を見たのだろうか。
めちゃくちゃにされた家を見たとき、何を思ったのだろうか。
それでも行くところもなく、その家で再び横になり眠る夜に、いったい何を考えたのだろうか。

なぜ彼女はあんなにも笑顔なんだろうか。

なぜこんなことが起きているのだろうか。

僕はどうすればいいんだろうか。僕はいったいどういうつもりでここにいるんだろうか。

分からないことばかりだった。
自分から望んできた場所だったのに、すぐに逃げ出したいような気持だった。
胸が痛くて痛くて苦しかった。
つらくてつらくて、でもどうしたらいいか分からなかった。

別れ際のシュンドリとの1枚






あれから15年経った今も、シュンドリの笑顔を思い出す。そのたびに胸が痛む。
そして今も、ジュマの人々は暴力にさらされ続けている。
ジュマネット ジュマの支援を行う団体)

2018年3月5日月曜日

バングラデシュ② チッタゴンヒル子ども基金

チッタゴンヒル子ども基金(2003年)

大学を出てすぐに夢だった小学校教員になることができた。
ずっと目標にしていたから、実際にクラスを持ち、毎日子どもたちと接することが楽しくて楽しくてたまらなかった。
楽しいことばかりの仕事じゃなかったけれど、それも含めて日々が充実していた。
毎日7時過ぎには出勤して、職場が閉まる22時近くまで働く。おまけに休日も出勤していた。
特にそれをつらいとは思わなかった。湧き出てくるアイデアが実現した時の子どもたちの表情を思い浮かべると、時間を忘れていくらでも働くことができた。

そんな勢いで夏休みに入った。さすがに夏休みは7時から22時まで働き続けるような仕事はない。急に時間ができて、ふと考え込んだ。
こんなふうに仕事しかやっていない大人って子どもたちにとって魅力的なのだろうか。
毎日職場と家との往復で、他に特にやっていることはないような大人。
子どもたちの目の前に立つひとりの大人としてそれでいいんだろうか。
もっと豊かな世界を持っていたほうがいいんではないだろうか。
我に返るように思った。
じゃあ、自分は仕事以外に何かしたいことがあったっけ。
アパートの畳の上にねころがって、天井を見ながら考える。
気が付くと、パソコンに「バングラデシュ ボランティア」と打ち込んでいた。

「バングラデシュの少数民族の料理を作って寺子屋を支援しよう」という掲示板の書き込みを見つけたのは、そんなときだった。
それはとても魅力的にうつった。寺子屋支援なんて、小学校教員の自分にぴったりだと思ったし、料理も好きだった。
それでもすぐには参加の連絡ができなかった。
なぜか。
社会人になってもボランティアをしているような人たちは、きっととっても真面目でお固く、僕のようなちゃらんぽらんの人間とは別の人たちのようなのだという、浅はかな偏見を持っていたからだ。今思うとすごく恥ずかしい。

それでも、このまま仕事だけじゃいけないと思い、数日後に料理教室への参加を決めた。
僕の偏見は非常に強烈な衝撃で粉々に砕かれることになる。
日曜日の昼だったと思う。
案内に書かれた会場を探すと、そこは中目黒と祐天寺の間、日比谷線の高架下のバーだった。
バナクラという店名が案内に記載されているが、その場所と思わしき場所のドアの回りには看板らしきものは何も無かった。
おそるおそる木でできたドアを開く。
窓も無い店内は、昼間だというのに薄暗く、カレーのスパイスらしき匂いと、それと同じくらい強く独特のお香のような匂いがしていた。
バナクラというよりは穴倉。まさにその言葉がふさわしい。
当時22歳。中目黒の看板もないバーなんてそれまで足を踏み入れたこともなかった。
大変なところへ来てしまったと思ったが、引き返す勇気も出なかった。

そこには先客が数名あった。みんな知り合いらしく、すでに酒も入って盛り上がっている。
えっと、料理教室だったよなと思いながら、やたら目のきれいなかんさんと名乗るバーのマスターの案内で隣のテーブルに座る。
隣の人たちは大声で楽しそうに盛り上がり続けている。
僕は縮こまって座っている。多分、この場で一番真面目に振る舞っているのは自分だった。予想とはまるで逆だ。
隣のテーブルの人たちの会話に聞き耳をたてる。
「イスタン」やら「ブエノス」やら「ヘレナ」と言った単語が飛び交う。
やたらフレンドリーな雰囲気でひとりの男性が握手を求めてくる。
「俺はひろ。名前はなんて言うんですか?よかったらこっちで一緒に。」
テーブルをくっつけ、僕もビールをいただく。
何と彼らはそれぞれがリュックひとつで世界を一周していた旅人たちだった。
もともと友だちだったわけではなく、世界のあちこちで何度か巡り合う中で、仲が深まったのだという。
イスタンはイスタンブール、ブエノスはブエノスアイレス、ヘレナはブタペストにある宿の名前だそうだ。
初めは緊張していたが、彼らの話はとってもスケールが大きく魅力的で、僕は惹き込まれていった。

ようやく料理教室が始まる。
料理をしながら会の趣旨を知る。
この会は、バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯に住む少数民族の寺子屋支援を目的に催されていた。
そこには実際に少数民族出身のセカさんがいた。僕もよく行く渋谷の大衆居酒屋でバイトをしたお金で、自分の出身の村に寺子屋を建てたそうだ。
世界一周組は、帰国後の再会を祝う飲み会をその居酒屋でやっているときにセカさんに声をかけられ、料理教室に参加することにしたらしい。
セカさんはおだやかだけれど、情熱を感じさせる人だった。
この料理教室は、寺子屋支援をするための団体を作るための第一歩として企画したらしい。
「よし!みんなで寺子屋を助けようぜ!」誰からともなくそんな声がした。
普段なら絶対に接することのないとても魅力的な人たち。
彼らともっと仲良くなりたいと思い、僕もこのチッタゴンヒル子ども基金の活動に参加することにした。

それから、子ども基金の活動は一気に始まった。
僕はこの活動で旅人の行動力のすごさを目の当たりにする。
「迷ったらワイルドなほうを選べ」それが彼らの合言葉だった。
実際に行っていた活動と言ったら、料理教室やバーベキュー、鍋などを企画し、参加費を募り、そこから寄付金を捻出するという、あまりにシンプルなものだった。
けれど、活動の中心になっていたフレンチシェフのけんさん、通称シェフけんさんは、とにかくパワフルな人で、やることなすこと大胆だった。
まさか多摩川の河原でアンコウの吊るし切りを見ることになるとは思わなかった。
周りに集まる旅人も、僕がそれまで出会ったことのない本当に魅力的な人ばかりで、寄付金を集めるための会にはいつも多くの人が集まった。
毎回、新しい出会いがあり、酔い、語り、楽しかった。
ただの飲み会ではなく、この楽しさが離れた誰かのためになるという思いが、いっそう楽しさに拍車をかけていた。
寺子屋支援のための寄付は順調に貯まっていった。

寺子屋に飾られていた子ども基金メンバーの写真

ただ、ここで問題が起きた。
その寄付金を実際に現地に持っていく人が見当たらなかった。
現地に住むセカさんのお兄さんに送金はしていたものの、実際に現地を見たメンバーはほとんどいなかった。
なぜならみんな社会人であり、たどり着くまでに1日以上かかるバングラデシュの片田舎に簡単にいけるような状況では無かったのだ。
「そろそろ実際に誰か行きたいよね。」
「でも、誰か行ける?」
「店を空けるわけにはいかないし…」
おそるおそる口を開く。
「えっと、冬休みがあります…」
そういうとみんなの視線が一気に集まった。
「そうだ、せんせいは先生だった。」
会では「せんせい」と呼ばれていた。
「じゃあ、せんせいに行ってもらおうぜ。それがいいよ。」
「せんせい、早く言えよなー。」
ひくにひけない状況だった。
でも、わくわくしていた。
世界中を巡った旅人たちが集まっている会だったけれど、その中にチッタゴン丘陵地帯に行った人はいなかった。
その人たちに先んじて自分が行けることは、なんだかとてもうれしかった。
憧れの人たちの一員にそれでなれるような気がしたのだ。

2003年の12月。僕はチッタゴン丘陵地帯「チッタゴンヒル」に行くことを決意した。
それは忘れることのできない旅になった。

チッタゴンヒル子ども基金 最後の料理教室(2014年)

2018年3月3日土曜日

バングラデシュについて① 初めてのバングラデシュ

フェイスブックのプロフィール写真はバングラデシュという国の東端、チッタゴン丘陵地帯の小さな小さな村にあるプルナジョティという寺子屋で撮った写真だ。
大切な大切な友人たちと写っている。


バングラデシュは僕が愛してやまない国だ。
初めて行った2002年から10年間、毎年のように訪れていた。
バングラデシュと自分について、いつかしっかりと書きたいと思っていた。
書き始めたら、まったく終わりが見えなくなった。
自分の記録として書いておきたい。
何回かに分けて書けたらいいんだけど。

大学3年生の秋だったと思う。
大学の小さな広場にある藤棚のゴミ箱に貼られていたポスターがたまたま目に入った。
「バングラデシュ ワークキャンプ 参加者募集」
いつもだったら気にも留めなかっただろう。
でも、その時は違った。
友人の井桁に言われた言葉が頭から離れなかったのだ。
彼とはその当時、たまに夜中に会って話し込むことがあった。
将来の目標の話になったときに僕はこう答えた。
「小学校教員になりたい。それで、自分のクラスの子どもたちを幸せにしたい。」
真っ当な答えだったと思う。
そこに彼はかみついてきた。
「お前、それでいいの。自分の周りだけが幸せならそれでいいの?周り以外は幸せじゃなくていいの?お前はもっと広い世界を幸せにしようとは思わないの?」
彼特有の、挑みかかってくるようなあの口調でそれを言われた。
何か言い返した気がするが、彼の熱量に押され、黙ってしまった。
そして、犬養道子さんの書いた「人間の大地」という本をすすめられた。
本屋で探してみたが、すでに絶版だった。
あきらめようとも思ったが、井桁のあの情熱のもとを知りたくて、何とか調べて、友人の大学の図書館にあることが分かり、友人に借りてもらった。
それは先進国と途上国の南北問題について書かれた本だった。
彼のあの熱弁と相まって、そこに書かれていたことに大きなショックを受けた。
そんなタイミングで大学に貼られたポスターを目にしたのだから、妙に気になってしまった。

大学2年の時の挫折から立ち直れず、いつまでもふらふらしている自分に、誰よりも自分自身が嫌気がさしているころだった。
何か変えたいと思っていたからだろう。気が付くと僕はバングラデシュにいた。
2002年、大学3年生の春休みだった。

大学生が企画するボランティアのワークキャンプ。
その一員としてバングラデシュのダッカに降り立ったのだ。
飛行機を出る、空港内にも関わらず、すでに独特のスパイシーな匂いがただよっていた。
空港のゲートを出ると、正面の金網に数えきれない人が張り付いていた。
数えきれないほどの人が張り付いているのだ。
それは異様な風景だった。
その視線が一気にこちらに向かってくる。
迎えの人にしては数も多いし、ウェルカムな雰囲気は一切ない。
目が血走っている人も見える。
(後で分かったが、これはカートという覚醒作用のある噛みタバコの影響らしい)
叫んでいる人もいる。
怖い。が、同じ参加者には女の子もいる手前、怖がっているそぶりは見せられなかった。
「これは外国人を見に来ている人だよ」
バングラデシュに滞在経験のある学生が教えてくれた。
強烈な初めの一歩だった。

 
ダッカの喧騒

16年も前のことなのに、ワークキャンプのことはずいぶん覚えている。
首都のダッカから北に車で5~6時間、カパシアのアラルバジャールの隣、カリヤブ村に、学生キャンプの一団は到着した。
途中、舗装されていない穴だらけの土の道路でバスがバウンドしたり、道の真ん中に牛が闊歩していたり、川を渡るためにバスごと渡り船に乗ったり、驚きの連続だったが、なんとか目的地についた。
地元の名士、バキの家にホームステイする。

僕たちの目的はこの村にトイレを掘ることだった。
直径1m、身長ほどの深さの穴をほり、粘土を固めて作った丸い枠をいくつか埋めていく。
最後に蓋をはめる。蓋の真ん中には見慣れた和式便所が埋め込まれている。
とても簡単なトイレだ。
なぜそんなことを僕たちがやったのか。
実はこの村にはトイレがほとんど無かった。
というよりも排泄をトイレで行うという考えがない人が多かった。
カリヤブ村はほとんど開発がされていない村で、畑や田んぼの他にはうっそうと木々が生えていた。
人目につかないところは山ほどあり、人々はそこで用を足せばよかったからだ。
しかし、その方法には、やはり問題があった。
人口が増えていくなかで、衛生面の問題や、病気、特に女性の排泄に関わるものが増えていったのだ。
注目を浴びる日本人の一団がトイレを掘ることで、その必要性を啓蒙することが目的だった。

午前中はトイレを掘りにいく。
電気、ガス、水道のない何でもない村に、日本人の団体の存在は飛びぬけて異質だった。
村中の人がその様子を見に来る。
その視線が気になる参加者もいたが、目立ちたがり屋の僕は、うれしくなって人一倍張り切ってやっていた。
その様子を村の人が楽しそうにやじる。
言葉は分からないが、おそらくヤジだ。
「笑ってないで手伝ってよ!」
手に持ったくわを渡そうとすると、大げさに逃げていって、その姿に周りの人が笑う。
振り返れば、啓蒙という目的はまったく果たせていなかったが、言葉が通じない村の人たちとのやりとりは楽しかった。

バキの家には大きな中庭があって、日本人見たさに何人もの人がやってきた。
バキは、家に入ってきた人々に気がつくと大きな声で追い払うのだけれど、バキの知り合いや、2人いた息子の友達は滞在を許されていた。
特に子どもたちとは仲良くなった。
日本でもしていたように、高い高いをしたり、追いかけっこをしたり、すぐに打ち解けることができた。

バキの次男と友達

歩いて20分ほどの場所にはアラルバジャールという市場があって、いくつかの店が並んでいた。
布屋で買った布を仕立て屋に持っていき、庶民の服である男性用巻きスカートのルンギを仕立ててもらう。
仕立ててもらうと言っても一枚の布の端と端をミシンで縫い合わせ、筒状にしただけのシンプルなものだ。
この筒の中に身体を通し、おへその下あたりでうまく結ぶと、それで出来上がりだ。
ただ、ルンギの結び方にはちょっとしたコツがあって、うまくやらないとずり落ちてしまう。
何度か練習したら、うまく履けるようになった。ベンガル人にもほめられた。
ポケットのないルンギでも、結び目の中にお金をうまく隠せるようになった。
うれしくて毎日ルンギを履いていた。
ルンギを履いたことで、いっそう村の人や子どもとの距離が近くなった。

僕らの存在は村では有名だったから、みんなが見に来る。
特に若い男性や子どもは積極的で、すぐに話しかけ、肩を組み、ちょっかいを出してくる。
すぐはしゃいでしまう僕は、彼らの出してくるちょっかいに2倍で返す。

夜は真っ暗闇の中、ランプをつけて過ごす。
土間のような土の床の部屋に、男子がみんな寝袋で横になる。
参加者は同じ大学生。
今みたいにスマホがあるわけではないし、電気が通ってないのでテレビももちろん無い。
自然と語り合う夜となる。
と言ったらかっこいいけれど、すごくくだらない話をしていた気がする。

キャンプのリーダーだったふじじゅんと話したことが忘れられない。
昼間に市場まで出た帰り、なぜか彼と河原に座ってぼんやり話していた。
「あのさ、ここに来るまで、恵まれない途上国の人って、もっとつらい表情で暗い感じかと思っていた。でもそうじゃなかった。」と話し出す。
「俺もそうだよ。そんなふうに初めは思ってた。でも、みんなすごく明るいし、前向き。実は俺らよりひょっとしたら日々を楽しんでんじゃないかって思えるくらい。こっちがエネルギーをもらう感じ。」とふじじゅん。
「そうなんだよね。自分の持っていたイメージが申し訳ないなって思った。」
「俺らはどうしても、この国や人々の貧しさに注目がいっちゃって、すごく彼らを哀れに考えちゃうんだけど、彼らにも彼らの日々の楽しみがあるんだよね。当たり前のことなのに、それが分かってなかった。」
「みんな優しい。助け合っている。助けよう、良いことしてやろうって思いでここにけれど、何だかこっちがいろんなことを教えてもらっている感じ。」
「そうだよね。ゆうすけの言う通り。ただ、日本と経済の格差はまぎれもなくある。圧倒的な貧しさは存在している。こうしてこんなにも素敵な思いをさせてもらっているから、彼らの良いところを損なわないようにしながら、それでもこの格差をどうにかしていきたいって思うんだ。」

16年たって、20歳そこそこの青年2人の青臭いやり取りを文字に起こすことは、なんとも気恥ずかしさがある。
でも、お互いの顔を見ずに、横並びの体育座りで、川を眺めながらしたこの会話が、僕には今も忘れられない。

夜は真っ暗だから早く床につく。
すると早朝に目が覚める。
ニワトリの鳴き声や、鳥のさえずり、そしてコーランの響きに起こされる。
早朝はすずしいから、散歩のチャンスだ。
他にすることもないので、朝もやのなかを散歩に出かける。
市場とは逆の方向へ歩いていく。
村はまどろみのなかだから、まだ歩いている人は少ない。
いつもはちょっと怖い野良犬も、どこかで寝ているから大丈夫。
道の両側には、田んぼがあって、その向こうにもやのかかった緑の木々が見える。
道沿いに小さなドカン(茶屋)が見えてくる。
2タカ(4円弱)をはらうと、小さな白いコップに銀色のヤカンからチャイが注がれる。
そこへコンデンスミルクをさじですくって入れ、乱暴にかきまぜたら出来上がり。
このあまったるいチャイが、とてもおいしく感じる。少しずつちびりちびりとすすっていると、この国の人になった気がする。
バングラデシュの国旗は緑地の日の丸。それが分かるような緑に囲まれた景色だ。
散歩から帰ると、バキの奥さんのバビさんが朝食を作ってくれている。
チャパティという円形のふくらんでいないナンのようなものが朝食だ。
これにカレーをつけたり、卵焼きを添えて食べる。
このチャパティがもちもちしていておいしい。
毎回出されるダールという薄いカレー味の豆スープはあまり好みではなかったけれど、その他のカレーはどれもおいしかった。

バキ一家とキャンプから2年後の再会

キャンプではトイレづくりの他にも、書ききれないほどいろいろなことがあった。
3週間のキャンプが終わるころには、僕はバングラデシュという国が大好きになっていた。

あまりに好きになったせいで、その翌年、大学4年生の春休みに、今度はひとりでバングラデシュに旅行に行った。
当時はまだ地球の歩き方が出ていなかった国だ。
初の海外一人旅がバングラデシュという人もめずらしいのではないか。
この旅行もハプニングの連続で楽しかった。
夜中の2時にバスから降ろされ、暗闇の中に放り出されたときにはどうしようかと思った。

ただ、この旅行が僕とバングラデシュとの最後になると思っていた。
しかし、そうならなかった。
僕はその後、もっともっとバングラデシュとの関わりを深めることになった。
それがチッタゴン丘陵地帯に住むジュマとの出会いだった。
大切な大切な友人とたくさん出会うことになった。

そのことを近いうちにきちんと書こうと思う。

キャンプを主催したイチさんと。
キャンプから2年後のナラゴンジバスターミナルにて。

2018年1月7日日曜日

5歳はサルパを知っている

久しぶりに家族4人で出かけたある日のこと。
大きな歩道で横一列に手をつないで歩く。
左から自分、長男、次男、妻。
長男がうれしそうに言う。
「サルパみたいだね!」
「サルパ?」
5歳の長男は滑舌が良くなく、彼の言いたいことを聞き間違えてしまうことがたまにある。
しかし、サルパ。
似た言葉が思いつかない。
くやしいが長男の言葉の翻訳は妻のほうがうまい。
でも、頼みの綱の妻も心当たりがないよう。
いったい何と言い間違えているのか。
「サルパ??」
「そう、サルパ。」
たしかに「サルパ」と言っている。
心当たりがない。
「えっ?サルパって何?」
「あのね、あのね。」
しゃべりが達者ではない長男。懸命に何か説明しようとしている。
「深海に住んでいるんだよ。こうやってつながるの。」
「へー。そうなんだ。」
正直、半信半疑。

家に帰ってくつろいでいると、長男が肩をつついてきた。
手には図鑑。
「これだよ。」

たしかに「サルパ」。横に連なっている。
「この前の深海生物のテレビに出てた。」
なるほど。熱心に見ていた番組だ。そこで知ったのか。

5歳の長男に教えられる。
彼は今生き物に夢中だ。
サルパ以外にも僕の知らないことをいっぱい知っているに違いない。
子どもは教えられることを学んでいくより、それよりもずっと、子ども自身の日々の生活のなかで、様々なことを知ったり学んだりしているんだなと思った。
僕は何かを教える時に、我が子や教室の子どもたちを「何も知らない存在」として扱ってしまいがちなんだけど、決してそうじゃないんだと思う。
子どもたちはすでに豊かな知識、世界をそれぞれが持っているんだろう。
「サルパ」の言葉にそんなことを思った。

2017年11月7日火曜日

先生の一言

先生の一言
 
 中学時代に世界史を教えてくださった加藤史朗先生の思い出を2つ。

 1つ目は中学1年生のころ。「自由」を代名詞にしているような学校だったから、熾烈な受験戦争を耐え抜いた僕らは、分かりやすい自由を手当たり次第謳歌していた。例えば授業中。今思うと大変質の高い講義だったように思うけれど、僕を含む一部の人間は、講義を聞かずに、別のことをいかにするかで、周りに自分の無頼をアピールしていた。
 授業中に隠れて弁当を食べたり、漫画を読んだり。その日僕は携帯ゲームをしていた。こともあろうか、ゲームギア。セガが出していた携帯するにはなかなかのサイズのやつだ。
 もちろんバレた。授業の声が3つ先の教室まで届く大声の持ち主の加藤先生が怒鳴る。おそらく6つ先の教室まで届いただろう。「有馬!何やってんだ!持ってこい!!」無頼を気取ってやっていた割に、怒鳴られたら怖くて縮み上がって、すぐにゲーム機を持っていった。
 授業後に呼び出される。「これ、どうやんだ。やってみろ。」おそるおそる電源を入れ、やってみせる。「ああ、どんなに怒られるんだろう。」とびくびくしていた。すると、今まで聞いたことの無いような穏やかな声で「こりゃ楽しいな。授業中にこんなものやったら止められるはずないだろ。授業中は出すなよ。」と言い、そしてゲーム機を手渡された。拍子抜けし、安心した。何より、「楽しいな」という言葉に驚いた。教員はそういうものを全否定するものだと思っていたから。(もちろん全否定されても仕方のない流れでもあった。)
 結局その後も、少なからず授業中に別のことをしていた気もするが、それでもゲームはさすがにやらなかった。世界史は好きな教科となり、小学校教員となった今の専門は社会科だ。あの時の穏やかな「楽しいな」のひとことは今でも忘れられない。
 
 もう一つ忘れられないことがある。
 高校2年生のときに、生徒代表として中学1年生の入学歓迎の言葉を入学式で話すことになった。毎年生徒代表の言葉はパフォーマンス重視みたいなとこがあるんだけれど、でも、自分が中1のときのカンローさんの言葉がとっても印象的だったこともあって、何を話すか、ものすごく悩んで決めた。真剣に考えたのだ。
 「自由」をテーマに話した。
 通った中高はとにかく「自由」だと入学のときから教員にも先輩に言われてきた。でも、その「自由」には責任が伴うとも必ず言われていた。そして、これも必ず付け加えられていた。「人に迷惑をかけるような「自由」は認められない」とも。
 上述の通り、その自由を無頼を気取ることで謳歌してきた。でも、自分の自由の行使の仕方が、本来の自由を矮小化させていることを薄々気づいていた。同時に、「人に迷惑をかけるような「自由」は認められない」ことへの違和感を持つようになっていった。今ならその違和感を表せる。それは簡単に同調圧力に置き換えられるのだ。「空気を読め」という言葉に簡単に変えられる怖さを「人に迷惑をかけるような自由は認められない」という言葉は持っていたのだ。
 その違和感を当時の自分なりの言葉で1年生に訴えたかった。「人に迷惑をかけるような自由は認められないって周りは言うかもしれない。でも、本当に自由を手にしたかったら、誰かしら迷惑はかけてしまうものなんじゃないか。周りへの迷惑を考えすぎて、お互いに遠慮して小さくなっていってしまうことよりも、大切なのは、お互いの迷惑を許しあえる関係を普段からどうやって作っていくかなんだと思うんだ。「迷惑かけちゃったな。ごめん。」と言えば「お互い様だろ。迷惑だったけど、お前楽しそうだったよ。」と笑ってそう返ってくるような、そんな関係を周りと作っていこうよ。」そんな話をしたかった。(実際は緊張でうまく話せなかった。)あれは1年生に話している形だけれど、自分に話していたんだな。
 結局また分かりやすい無頼を気取って、台本を演台上で破るパフォーマンスや、演台に腰かけて話したりしたので、何人かの先生には大きなものから小さなものまでお叱りの言葉をいただいた。「お前、あんまふざけんなよ。」見下すように言った先生もいた。
 でも、加藤先生は違った。話し終えて講堂を出た僕に、先生は駆け寄ってきた。そして、あの大きな声でこう言った。
「有馬、お前の言う通りだよ!ありがとう!」
そうして、僕の手をとって握手をしてくれた。
 高校2年生のころは、悩むことばかりだった。あのスピーチの内容も、当時の自分の苦しみをそれなりに吐露するものでもあったように思う。加藤先生の言葉が、自分を悩みや苦しみ、葛藤も含めて肯定してくれた気がして、すごく気が楽になったことを覚えている。そして、子ども相手に「ありがとう」と言って握手をできる、そんな教員、大人になりたいと、その時思った。

 僕の忘れられない「先生の一言」は、そんな加藤先生の2つの思い出だ。