2015年11月30日月曜日

人だから、合う合わないはある・・・のか?

 月1では何か書こうと決めていたのにも関わらず、早くもネタ切れしての月末。自分の12年間の教員生活なんてこんなもんだと自虐的になっておりますが、ひねり出した渾身の文章をどうかお読みください。

 教員をやっていて、これだけは言わない、思わないと決めていることがいくつかある。子どもの人格を否定することを言わないのは当たり前だが、いつどこの場でも言わないようにしている。他にも、モンスターペアレントという言葉を特定の人にかぶせることも絶対にしないように決めている。大切な教え子の、その親をモンスター呼ばわりすることで解決することがあるとは、まったく信じられない。それからもう一つ、「人だから、合う合わないはある」という言葉は絶対に使わないと決めている。思うこともしない。

 「人だから、(友だちに対しての)合う合わないはある」という言葉は、学部時代の実習の時に、ある先生から教わった言葉だ。そのあとに、先生は続けて「だから、合わない友達との距離の置き方を考えていきましょうと教えるんだ。」と言った。それを聞いたとき、激しい違和感を覚えたことを今でも忘れることができない。
 「人だから合う合わないはある」と教えてしまったら、子どもは「合う」と「合わない」という単純な二元論で友だちを判断してしまうのではないだろうか。それに僕は激しい抵抗を覚えたのだ。「合わない」と人を判断するのは、何かその時点で、永続的に、交わりや分かりあうことを放棄するような気がして、そんなことを子どもに教えるなんて、絶対にすべきではないと思ったのだ。
ただ、教員となり、学級経営をしていく中で、子ども同士で馬の合わない組み合わせがあることは受け入れざるを得ない事実だった。それが起こったときに、お互いが努力して分かり合わなければいけないと諭すことが、子どもを追い詰めていく。そんな場合もあるということも経験した。その子が真面目なら真面目なほど、友だちを受け入れられない自分を責めるのだ。あの先生の言葉は、そんな真面目に自分を責めてしまう子どもを救うための一言だったのだと、その時分かった。

しかし、それが分かりながらもなお、僕は「人だから、合う合わないはある」という言葉を子どもたちには投げかけることはしていない。やはりその言葉の持つ負の力は大きいと思うからだ。子どもたちに、人間は「合う」人と「合わない」人の2種類に分かれるんだよ、というメッセージを送ることは絶対に避けないといけないという強い思いがある。
馬の合わない組み合わせがあったときに、「ちょっと距離を置いたほうがいいのかもしれない。」という内容のことを子どもとの会話で出すことはある。ただ必ず次のことも付け足すようにしている。「今はうまくいかないけれど、きっともう少し時間が経てば、相手も、それから君も、ちょっと変わって、ひょっとしたら仲良くなれるかもしれないね。」そして、僕は、どうして馬が合わないのか、一生懸命考えてみて、それを変えられるように助けられることは助けようとする。
それから、クラス全体にはこう言っている。「なんだか仲良くなれないなって友だちがいるかもしれない。でも、きっとそれは、好きになれないところがあるってことで、反対に、同じ子のなかに、好きになれるところもあるのかもしれない。人っていうのは、単純じゃないからさ。ひとりの人の中に、いろんなことが混じっていて、ひとりの人になるからね。だからできれば、自分が好きだなってところを、相手の中からたくさん探せたら素敵だよね。」
ひょっとしたら、この全体に話していることは、自分が子どもを見ている見方なのかもしれない。そうか。なんで「人だから、合う合わないはある」っていう言葉に、すごく抵抗感を覚えるかって、それって子どもに「(先生だって)人だから、合う合わないはある」っていうメッセージを暗に伝えることにもなるからなのかもしれない。子どもが「自分は先生にとって「合う」の?それとも「合わない」の?」そういう風に考えてしまうメッセージなのではないだろうか。そんなことを伝える教師に僕はなりたくないのだ。
この12年間、100人以上の子どもを教えてきたけれど、幸運なことに、誰一人も「合わない」子どもに会ったことがなかった。どの子どにも好きなところを見つけられて、そして好きになれた。きれいごとではなく、それは本当のことだ。だからこれからも「人だから、合う合わないはある」って言葉は絶対に使わないようにできると思う。
そして、子どもたちもそんな風に育ってほしい。誰とでもすべてがすべて分かり合える関係にはなれなくても、「合わない」と切り捨てるのではなく、どこかに「合う」要素を探していけるような、そんな人になってほしい。きっとそれが、多種多様な人々を受け入れていく素敵な社会を創っていくことにつながると思うからだ。






 というところで文章を締めたかった。美しく締めたかった。が、懺悔する。子どもたちにはそんな風に接してきたと、胸を張って言えるが、ある集団の一員としての自分を省みるとどうだろう。僕はその中で「合わない」人がいるという態度をとってきた。それは自覚的でもあり、それ以上に無自覚的でもあり。
 きっと「合わない」んじゃない。勝手にそう決めつけているだけだった。僕は変わらなければならない。

2015年10月27日火曜日

「ちいさな哲学者たち」を見て



2010年のフランス映画、「ちいさな哲学者たち(JUST A BEGINNING)」を見た。
この映画、必見です。

フランスの幼稚園で、ある女性の先生が、4歳の子どもたちを相手に、哲学の授業をした2年間を追ったドキュメンタリー。
来年から小学校で哲学対話の実践を始めようと考えている自分にはぴったりの映画だと思い、期待を胸に見た。
期待以上だった。素晴らしかった。

机の無い教室で、子どもたちは円の形で椅子に座っている。
先生がろうそくに火をつければ、哲学の授業の始まりだ。
『友達とは?』
『リーダーとは?』
『頭がいいってどういうこと?』
明確な答えが無い問いに対し、子どもたちは自分の考えを口にしていく。
先生はその答えに「いい答えだね。」とか「それは違うんじゃない。」などの評価はしない。
ただ黙ってそれを受け止める。また、時には答えを深める問いを返す。

子どもたちが、抽象的なテーマについて対話をすることは、大きなハードルだと、僕は考えていたが、画面に映る幼稚園児たちは、いとも簡単にそれを飛び越えていた。
先生は言う。
『子どもは先入観なく熟考する。大人は「どんな意図でこの質問を?」と考える。そこが違う。』

『愛』をテーマにした対話では、離婚が話題に上る。
僕だったら避けたい内容だ。
しかし、先生は止めない。
「子どもの取り合いになるわ。」子どもは自分の意見を素直に述べる。
そして、話は女性同士の恋愛の話に変わっていく。
これもまた、自分だったら教室に持ち込まない話題だ。
『女同士だと恋にはならないの?』
先生は迷わず投げ返す。子どもたちは真剣に考える。

また『違いとは』というテーマでは、肌の色の違いが話題に上り、ある褐色の肌をした男の子はこう言う。
「黒人でなく白人になりたい。」
教室には、黒人も白人も混血の子もいる。しかし、先生は避けることなく、この話題を掘り下げていく。
『理由は説明できる?』
「黒人はきらい。」
「白人になりたい。白人のほうがやさしいから。」
「そのままの弟が好き。パパもママも犬も好き。」
ある黒人の女の子が話し出す。
「パパには目立つ障害がある。私のようには歩けないけど、できることがたくさんある。
パパは私を愛してる。パパと私はそのままのお互いが好き。」

同性愛、人種差別、貧富の格差…幼稚園児たちの対話は、今の社会が解決できていない問題を浮かび上がらせる。先生は、止めることなく、むしろすすんでそれを浮かび上がらせていく。子どもたちは、自分なりの答えを見つけようと考える。

哲学の授業では答えはない。先生は一切答えを提示しないし、ある方向へと意見を誘導するようなこともしない。
だからこそ、子どもたちは必死に考える。自分の答えを自分の中に問いてみる。そして、人に聞いてもらおうとする。周りの子どもたちはそれを聴く。友達の答えの中に、自分の答えのヒントがあることが分かっているのだろう。
わずか4歳、5歳の子どもたちが、素晴らしい対話をするのだ。

子どもたちには自ら学ぶ力がある。それを実感せずにはいられない。

僕たち教師は、いや、僕たち大人は、自分たちがいまだ答えにたどり着けていないことを、子どもたちから隠そうとしていないだろうか。
子どもたちに、「ねえ、どうして?」って聞かれて、うまく答えられない問いを、子どもたちから遠ざけようとしているのではないだろうか。
そうやって、実は何より、自分たち自身がその問いに向かい合うことを避けているのではないだろうか。

そんなことを考えた。

そして、自分自身が答えが出せていない、どこか遠ざけてしまっている問題と向かい合う覚悟が無ければ、本当の哲学対話なんてできっこないんだと、幼稚園児たちに教えられた。
「先生も答えが見つからないんだ。だからいっしょに考えたいんだ。」
子どもたちの力を信じられたら、それが言える気がする。

ぜひみんなに見てほしいなあ。それでみんなで感想を共有したい。

2015年9月27日日曜日

理想の学級 2015.9.27ver.

ひとりひとりが自由を感じているクラス。
自由とは、自己選択、自己決定ができる、もしくはできると思えること。
自分の自由とともに、クラスメイトとして対する相手にも自由があることを知っている。
相手の自由を尊重できること。
誰かの自由と誰かの自由が衝突することを知っている。
自由と自由の衝突を乗り越えたときに、新しい大きな自由が現れることを体験したから知っていて、それを目指せる。
例えば、休み時間を静かに過ごしたい子とにぎやかに過ごしたい子が衝突したときに、その2人が納得できるような方法を自分たちで見つけられる。
誰かの自由のために、誰かの自由が常に抑圧されることがないクラス。
ひとりで過ごす良さ、2人ですごす良さ、何人かですごす良さ、みんなで過ごす良さがある。
ひとりでマイペースに壁当てしたいときも、2人でキャッチボールしたいときも、守備練習も、みんなでの試合も、やりたいことをやりたいと言えて、それが叶うときもあれば叶わないときもあるけれど、叶わないときは理由が分かるといい。

「こうしなければいけない」ではなく「こうしたい」「こうなりたい」が行動の根拠になる。

人は違うものだという前提をみなが共有している。
そして、違いこそが楽しさを生み出すということを体験から感じている。
多様性を楽しみ、多様性の幅が広がっていくことを喜べる。
不躾に見えるけど、根底には人に対するちょっとばかりの無条件の敬意があること。
秀でている何かにではなく、人であることだけで敬意が持てるといい。
薄いけど、たしかにある自然な敬意が土台としてあるように。
言葉にはできなくても、それをお互いに感じていますように。
おおげさな温かさではなくて、ほんのり温かい感じ。
礼儀は、家族に接する程度で。
形にはまるのではなく、内側からから形作られていくように。

2015.9.27 いまのところはこんな感じ


人に伝えられるように具体的なイメージにしていくこと
今までの出来事と結び付けてみること
それを具現化するためにやれる具体的な手立て
そこに教員はどのように関わっているのか

そういうことも考えていきたい

2015年8月31日月曜日

私立学校に勤めていることについて

大学4年のとき、いわゆるゆとり教育への批判キャンペーンが大きく起こっていた。
それに対し、教育行政も揺り戻しと呼ばれる方針をとろうとしていた。
自分はいわゆるゆとり教育とされ批判にさらされたものの1つの総合学習について、非常に有意義なものと考えていたので、この動きに反感を持っていた。
職場として私立学校を選んだことの大きな理由は、この時の気持ちがある。
当時は、教育は普遍的な営みであり、その時その時の世論の流れで右往左往するものではないと考えていた。(今は多少の右往左往をしながら、普遍的な営みを探求していくものだと考えている。)子どもと日々面している教員ではなく、官僚が教育の大きな流れを決めていくことには、納得がいかなかった。
自分の思う良い教育をやりたい。それが出来るのは私学なのではないかと考え、公立学校の教員になるための教員採用試験は受けずに、私学を就職先に選んだ。

就職した学校は、教員の自主性が尊重され、自由な教育ができる環境があった。
東京都ではあるが、多摩の自然豊かな環境の中、詰め込まずにのびのびと子どもたちを育てていく学校の姿勢は、自らの教育信念とも重なり、思い切って仕事に打ち込むことができたし、その気持ちは13年たった今も変わらない。

ただ、いつでも心にひっかかっていることがある。
それは、幼児に対し選抜をすること、そしてそれに伴い、受験のために幼児期を費やさせてしまうこと、さらに、経済的、その他条件に恵まれた子どもたちしか相手にしていないことだ。

選抜試験を設け、わずか5才の子に対し、当落させるという行為は、果たして教育的であろうか。
二度と帰ってはこない幼児期のほとんどを、試験に通るために、お教室という塾通いに費やしている子どもたちを、私たちは作っている。

「お教室に通っていない子も受かるような試験を」を合言葉に、知識を問うような試験は排除し、生活経験や協調性などを重視する試験をやっているつもりだ。
それでも、ふたを開ければ、合格する子の多くはお教室出身者だ。
(受験者におけるお教室出身者の割合がそもそも多いのだろう。)

私は、幼児に対し、選抜試験をやることや、またその準備のために日々競争にさらされるようなめに合わせることへ大きな抵抗がある。

そういう自己矛盾をずっと抱えている。

また、公立に比べ学費及び必要な費用が非常に高く、たとえ教育理念に賛同したとしても、経済的理由で通うことを断念している家庭も多いだろう。
選抜試験をやることによって、排除されてしまう子どもたちがいる。
恵まれた家庭の、さらにその一部の子どもだけを相手にしながら、私は教壇に立って平等を説く。
そんな時胸が痛む。



私学を職場として選び、楽しみながら働き、それでもひっかかっていることがそのようなことだ。
悩ましさゆえに、職場を替えることも考えたことがある。
でも、私が公立に移ったところで、私立学校が無くなるわけではなく、上記のようなことが無くなるわけでもない。
私立学校がそれぞれ掲げる独自の教育理念に賛同する人たちは必ずいるし(私学が支持される理由はそれだけではないが)、教育に幅があることも良いことだろう。
何より、自分の思ったことを実現できる環境は、他の何にも替えられないほど、やりがいがある。


自分のひっかかりに対し、今現在自分を納得させようとしているのは、次のような考えだ。

まず一つは、入学した後はその時にしか得られない経験をさせること。
学校の中で、自由な時間を多く設定し、それが豊かものになるよう、自然環境に代表される学校環境を整えていく。
教室内の交わりはもちろん、教室を越え、異学年の交わりを増やしていきたい。
そのための方策もすすめている。

もう一つ。多様性を感じさせるような経験をさせること。子どもたちの日常は、良くも悪くもある程度の同一性が保たれてしまう。(子どもたち目線では、様々な子どもがいると感じているだろうが。)
だからこそ、もっと多様な人がいることを、意識して教え、実感させていきたいと思う。
様々な学校や施設、地域との交流がカギになると考える。

そして、平等よりも不平等を説いていきたいと思う。現実にある理不尽な不平等を説いていくことで、社会貢献できるような子どもたちを育てていきたい。
理不尽な格差を固定したり、広げるのではなく、格差を是正していけるような、そういうリーダーを育てたい。

そんなことを意識し、やっていきたい。

自分のひっかかりに対し、絶対の答えはあるのだろうか。
こうして言葉にしてみれば、もっとすっきりすると思っていたけど、逆にまた悩ましくなってしまった。
導き出した答えも、すごく無理やりなこじつけの気もする。
ただ、迷いながらも向かい合っていきたいと思う。

2015年7月26日日曜日

苫野一徳「教育の力」を読んで

最近の自分の教育への考え方は、主に2人の方から絶大な影響を受けている。
1人は岩瀬直樹先生、もう1人は苫野一徳先生だ。
昨日は苫野一徳先生の「教育の力」を読んだ。

あとがきより
「教育とは何か、そしてそれは、どうあれば「よい」といいうるか。前著『どのような教育が「よい」教育か』でこの問いに挑み、わたしとしてはさしあたり原理的な“答え”を解明できたのではないかと考えています(中略)前著が原理(理論)編だとするならば、本著はその実践編というべきものです。」

自分はこのあとがきに書かれている「どのような教育が「よい」教育か」という本にに大きな衝撃を受けた。
自分がやってきた、もしくはやりたいと考えている漠然としたことが、そこには具体的で力強い言葉で書かれていた。

「結論からいっておこう。教育の「本質」とは何か。それは、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」である。」

冒頭に述べられ、その後何度も出てくるこの言葉は、自分の教育活動に一本の背骨を作り出したように思う。

子どもに自由を教えたい。曖昧ながらずっとそう思ってきた。その思いを持ち続けて10年以上教員をやってきた。
しかし、そもそも学校というシステム自体が自由とは相容れないものであるという矛盾を感じながら、その矛盾の中で、それでも自分ならできることがあるはずだという思いが原動力になっていた。
それは何か答えのない営みのように思えて、息苦しさを感じることが何度もあった。

しかし、今、自分の目の前は大変明るいように思う。やるべきもの、目指すべきことがはっきりしたのだ。
今回読んだ「教育の力」には、その材料がいくつもこめられていた。

「学びの個別化」…子どもそれぞれのペースで学習をすすめられるようにすること
「学びの共同化」…学びを、子どもたちの「学び合い」によって深めていくこと
「学びのプロジェクト化」…教科や単元ではなく、子どもの内発的なプロジェクトを達成していくプロセスで、学び方を学び、自ら思考し課題を探究・解決していく経験を積む(学生時代に私が魅了された総合学習の理念に近いものだと思う)

上記のような学び方が提案されている。そして、その背景にはそもそもの学力観の変化があると述べられている。
現在の学力を知識をため込む力とし、これからの学力を「学ぶ力」-必要な時に必要な知識・情報を得て、それを持って自らの課題に向かえる力-としている。

この学力観の変換も大いに頷ける。だとすると、学力を子どもたちにつけていく我々教員のやるべきことも変わってくるはずである。

しかし、この学力観の変換が学習を変換させるには大きな障壁があると言わざるをえない。なぜならば、知識をため込むことを学力としたほうが、我々教員にとっては、実は都合がよいからだ。
その理由は以下の通りだ。

1.教員自身が知識をため込む学習をしてきている。人は自分の受けてきた教育を肯定しがちである。また、学習者としての経験のないものを教師として教えるのは難しい。
2.知識の定着の具合、知識量はテストによって客観的に把握しやすい。「学ぶ力」を客観的に判断することは難しい。

ここで論じたいのは、2についてである。
単なる知識を問うテストに対する批判は長く教育界にある批判だと思う。
しかし、批判があるものの、それは無くならない。
なぜだろうか。

知識の定着の具合や知識量はテストで測りやすい(もしくは測れていると考えやすい)。
テストで測れるということは、学習の伸展が見えやすいということだ。
学習の伸展が見えやすいということは、教員が自らの教育活動の有意を確認しやすいということだ。

教員はきっとみんな不安だ。
あえて「みんな」と言ってしまおう。
自分は不安だ。
常に自分の今の授業、今の子どもの見方、今の言葉、今の振る舞い…
それらが本当に学びにつながっているのか、不安なのである。
その時に、単元ごとにやるテストで、ある程度の成果が見てとれれば、
それは大きな安心につながる。
ああ、自分のやっていたことは間違えではなかったのだと。
テストで子どもの成果を可視化するのは、子どものためよりも、ひょっとしたら教員のためなのかもしれない。

であるならば、新しい学力観の定着には、知識を測る従来のテストに変わる評価観が大切になってくるのだろうと思う。
この本にも新しい評価の例として「パフォーマンス評価」が挙げられている。
しかし、新しい学力観と評価がいまいちしっくり結びつかない気もする。
学ぶ力はどこまで可視化できるのであろうか。

ただ、教員が自らの教育活動を肯定できるような仕組みは絶対に必要である。
それが新しい学力観、新しい学びを推し進めることに繋がるのだと思う。


私自身は、その仕組みの構築を待たず、来年以降、踏み出していこうと思う。
この本で提示された、新たな学力観や新たな学びを下敷きにし、
岩瀬実践をなぞりながら、
私にできる学習を追求していってみたい。
それはもう、気づいてしまったからだ。
このままではいけないと気づいてしまったからだ。

立ち止まって考え、踏み出す勇気を得る時間が必要だったんだと、そう思う。

2015年6月21日日曜日

呼び名問題から考える「学校」という場

先日、「みんなの学校」という映画を大学院のみんなで見ました。
http://minna-movie.com/
誰もが同じ教室で学び続けることのできる学校を目指し、それを体現している小学校の様子を映したドキュメンタリー映画でした。
私立小学校という、試験で選別された子のみを受け持つ自分にとっては、誰もを成長させるという教育の理想へ、言い訳をせずに向かっていく校長先生の姿は、直視するのが心痛い部分がありました。
後ろめたさを感じてしまうのです。
大学院で学び始めて3カ月近くなりましたが、この後ろめたさはところどころで感じることがあります。
私立で働くことへのしっかりとした整理を、自分の中でしないといけないと考えています。

が、そのことは、もう少し時間をかけて行おうと思います。少しずつ整理できてきた気はしています。

映画の後の感想交換会で、映画の内容と直接は関係ありませんが、気になる質問がありました。

それが、「教師が子どもをどう呼ぶか」という問題提起です。
映画の中で、その学校の先生たちは、敬称をつけることなく、子どもたちを愛称や下の名前で呼んでいました。
その是非を問う感想でした。
感想を述べた方は、「子どもを呼び捨てするなどもってのほか、きちんと「~さん」と呼ぶべきだ。」と主張しました。

この「教師が子どもをどう呼ぶか」という「呼び名問題」は結構いろいろな場面で耳にする問題です。
実際に自分の学校でも、それが問題になります。
今のところ共通ルールは設けないことになっていますが、どちらかというと、少なくとも授業中は「~くん」「~さん」という敬称を付けるべしという意見が優勢です。
さらには、男女で敬称を分けるのは、ジェンダー的見地からいかんということで、「~さん」に統一すべしという意見もあります。(社会に出れば、基本的な敬称が「~さん」であるということも理由の一つでしょう。)
今の学校現場では、この「~さん」という呼び名に統一する学校、学級が多いと思われます。

敬称を付けるか付けないか。
敬称は「~くん」「~さん」か、「~さん」に統一するのか。
授業中とそれ以外で区別するのかしないのか。
教師と子ども、子ども同士の場合はどうなのか。

こうしてみると、いろいろなキリトリ方のできる問題です。

そして実は、突き詰めていくと、教育観の根底に関わっていると言える大きな問題であると思います。

さて、では僕はどう子どもを呼んでいるか。

僕は、子どもをニックネームや下の名前で呼ぶことが多いです。
あまり最近の学校ではよくないとされていますが、今のところそうしています。

新しいクラスを受け持つことになったときに、「自分は人にどう呼ばれたいか」を発表させ、基本的にはその呼び名を使うようにしています。
もちろん、その時に、「くん」や「さん」を付けてほしいと言われればそうしますし、他の子にもそう呼ぶように話していきます。
ただ、ほとんどの子どもがニックネームや下の名前をその場で言うことが多く、結果、僕は子どもたちをそう呼ぶことになります。

これを話すと、驚かれ、時に怒られることも多いのですが、僕は授業中もその呼び名を使って呼びます。
そして、自分自身も、どの場面でも、子どもからニックネームで呼ばれています。「~先生」とはほとんど呼ばれません。


「~さん」と呼ぶことによって、教員が子どもたちの人権を尊重することにつながる。
子どもたち同士も「~さん」をつけて呼び合うことによって、お互いを尊重するようになる。
そんな人権尊重の見地からの意義。
社会に出たら「~さん」が当たり前なのだから、子どものころからその習慣をつけさせるのが良いという社会への準備としての意義。
授業はけじめが大切。規律をしっかりすることで、効果の高い授業ができるという意義。

以上のような敬称をつけて子どもを呼ぶことの意義は、分からなくもありません。
また、もっと他にも意義があるのでしょう。
でも、僕はそうしていません。
それは、学びの場である教室を、生活の場に近づけていきたいという思いがあるからです。


僕は、学びは、日常のつながりの中でこそ意味を持つものだと考えています。
授業は、切り取られた特別な時間ではなく、日々の生活の延長にあることで効果が増すと思うのです。

普段の生活や遊びの場面での子どもたちの姿を想像してください。
自由な発想が次々に出ていませんでしたか。
そして、周りの意見を聞いて、時にぶつかりながら、発想をさらに広げていませんか。

毎日の授業も、そんな姿で受けてほしい。そう思いました。

教室に、学びの場に、生活や遊びの時の子どもを持ち込みたい。
自由な発想で学び合う時間を作りたい。
そのためには、どうしたらいいだろう。
子どもたち同士がいつも呼び合っている呼び名を、そのまま授業でも使うこと、それがひとつの方法だと思いました。

敬称をつけて子どもを呼ぶ意義より、生活の場で使われている呼び名を使うことのほうが、僕には大切に思えたのです。
そして、僕自身もニックネームで呼ばれることで、子どもたちの学びを合いの一員によりなれると考えたのです。

もちろん、他人に敬意をはらうこと、場面によっては敬称をつける必要があることは身につけてほしいので教えます。
校外学習などは、その恰好の場になります。
一方で、形から入る敬意より、生活の中で自然と生まれる敬意のほうが、本質的だという思いもあります。

以上のような、教室を生活の場に近づけたいという理由で、僕は子どもたちをニックネームで呼び、自らもニックネームで呼ばれています。
また、同じ理由で授業の始めや終わりのあいさつもしません。
同僚や保護者から疑問を呈されることもありますが、今のところはなんとか納得していただいていると思っています。

うまくまとまりませんが、「呼び名問題」、実は教育観とつながる問題だと改めて感じました。さらに考えを深めていきたいと思います。

案外、来年あたり呼び名を変えているかもしれません。











2015年5月29日金曜日

平等よりも大切なこと

さて、ブログなんてものを開始してみました。
小学校教員として12年間過ごしてきましたが、今年度は1年間、大学院で学ぶ時間をもらいました。
この期間を利用して、今まで自分の中で考えてきた、教育に関することを、少しずつ言語化していきたいと思います。

記念すべき最初のテーマは「平等よりも大切なこと」です。
早い話が、子どもにえこひいきしていいのかってことです。
結論から言うと、僕は子どもへのえこひいきは大いに結構だと思っています。
もちろん、根拠のないえこひいきはするべきでありません。
でも、根拠に根付いたえこひいきは、がんがんやっていくべきだと思います。
それは、すべての子が気持ちよく暮らすために、教員のできることの大きな1つだと思うからです。

このテーマで忘れられない子どもがいます。
今から10年くらい前、ある女の子Aさんを受け持ちました。
頑固な子で、自分が納得できないと、てこでも動かない。
無理に何かをやらせようとすると、へそを曲げて、心を閉ざしてしまう。
ともすると、心だけでなく、本当に扉をも閉ざしてしまう。
(何度か女子トイレにたてこもられました。)
どう接するか、非常に悩みました。
答えの出ないまま、とにかく彼女には優しく丁寧に接するようにしました。


2年目になるころに、少しずつ心と心が触れ合うような実感を持てることが増えてきました。
心を閉ざしてしまえば、何も言葉が届かなくなります。
そうしないように、とにかく丁寧に丁寧に。
それは、周りの子とは違う接し方でした。

そのうち周りの子たちが、そんな僕の接し方に文句を言うようになりました。
「Aさんだけにやさしい。」「俺たちと違う扱い方だ。」「ひいきだ。」と。
これはこたえました。
たしかに言い返せないことだからです。
加えて、その時の僕は、「教員たるもの、すべての子に平等に接しなくてはならない。」
という考え、固定観念を持っていたので、そんな自己矛盾を子どもたちに鋭く突かれたような気がして、ものすごく苦しみました。
Aさんにも平等に接するようにすれば、子どもたちからの追及は逃れられ、自己矛盾も解消するでしょう。でも、そうしたらAさんは…

Aさんに特別な接し方をすることで、Aさん自身にも変化が少しずつ起きていることを僕は感じていました。
彼女を受け止めることで、自己肯定感が芽生え始めている、そんな気がしていたのです。
今、対応を変えれば、彼女はまた元に戻ってしまう。
本当にそれでいいのだろうか。

ずいぶん悩みました。

ところが、天の啓示のように、ふっとある考えが、突然ひらめいたのです。
「Aさんだけを特別扱いするから、いけない。クラスの子ひとりひとり全員を特別扱いすればいいんだ。」
その結論に達したきっかけは覚えていません。
でも、それが自分をとても楽にしたことを覚えています。
僕は「平等」という言葉に囚われすぎていて、同じような対応をすることを平等と思い込んでいたのです。
そうではなくて、Aさんを含め、クラス1人ずつを本当に大切にしようとするなら、それは画一的な同じやり方でいいはずがなかったのです。
ベストな接し方は、クラスに100人子どもがいたら、100通りあるはずなのです。
どうしてこんな当たり前のことに気が付かなかったんだろう。
いつも口では個性を大切に伸ばしたいと言っていたのに。
なんてことを思ったことを覚えています。

それからは、気が楽になりました。
同時に、クラス1人ずつ、それぞれへの接し方を意識するようになりました。
子どもたちに「えこひいきだ。」って言われても
「そうだよ。えこひいきだ。だってAさんにとって、そうしてあげるのがいいと思うからだよ。」
と答えるようになりました。そのかわり、必ず次のようなことも付け足すようにしています。
「君については、こんな風な接し方を考えているよ。例えば〇〇の時間に、自信のありそうな表情のときには、積極的に発言をしてもらおうと思っている。それから、つらいときほど隠そうとするから、気をつけて見ているつもり。どう、そういう接し方はダメかな。」
つまり、誰についても、自分がどう考え、どう接しているつもりかを伝えられるようにしたのです。

もちろん1人ずつ目に見えるような違いの接し方ができているかと言えば、それは理想通りにはいきません。
でも、そう意識すること。それから、「ひいきだ」って言われたときに、胸を張って「そうだよ」と答えてその理由が言えるようになったこと。それは自分の中の大きな考えの変化でした。

Aさんとは卒業するころには、心の交流が持てるようになったと思います。
周りのAさんを見る目も、初めとは大きく変わったように思います。
これでよかったと、思える変化でした。

そして、Aさんと接することで、自分も大きく変わりました。

平等より大切なことがあると今の自分は考えています。1人ずつ、もれなくえこひいきすること。
その子にあったオーダーメイドの教育をすること。その先にこそ、本当の平等があるのではと、今は考えています。