2015年7月26日日曜日

苫野一徳「教育の力」を読んで

最近の自分の教育への考え方は、主に2人の方から絶大な影響を受けている。
1人は岩瀬直樹先生、もう1人は苫野一徳先生だ。
昨日は苫野一徳先生の「教育の力」を読んだ。

あとがきより
「教育とは何か、そしてそれは、どうあれば「よい」といいうるか。前著『どのような教育が「よい」教育か』でこの問いに挑み、わたしとしてはさしあたり原理的な“答え”を解明できたのではないかと考えています(中略)前著が原理(理論)編だとするならば、本著はその実践編というべきものです。」

自分はこのあとがきに書かれている「どのような教育が「よい」教育か」という本にに大きな衝撃を受けた。
自分がやってきた、もしくはやりたいと考えている漠然としたことが、そこには具体的で力強い言葉で書かれていた。

「結論からいっておこう。教育の「本質」とは何か。それは、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」である。」

冒頭に述べられ、その後何度も出てくるこの言葉は、自分の教育活動に一本の背骨を作り出したように思う。

子どもに自由を教えたい。曖昧ながらずっとそう思ってきた。その思いを持ち続けて10年以上教員をやってきた。
しかし、そもそも学校というシステム自体が自由とは相容れないものであるという矛盾を感じながら、その矛盾の中で、それでも自分ならできることがあるはずだという思いが原動力になっていた。
それは何か答えのない営みのように思えて、息苦しさを感じることが何度もあった。

しかし、今、自分の目の前は大変明るいように思う。やるべきもの、目指すべきことがはっきりしたのだ。
今回読んだ「教育の力」には、その材料がいくつもこめられていた。

「学びの個別化」…子どもそれぞれのペースで学習をすすめられるようにすること
「学びの共同化」…学びを、子どもたちの「学び合い」によって深めていくこと
「学びのプロジェクト化」…教科や単元ではなく、子どもの内発的なプロジェクトを達成していくプロセスで、学び方を学び、自ら思考し課題を探究・解決していく経験を積む(学生時代に私が魅了された総合学習の理念に近いものだと思う)

上記のような学び方が提案されている。そして、その背景にはそもそもの学力観の変化があると述べられている。
現在の学力を知識をため込む力とし、これからの学力を「学ぶ力」-必要な時に必要な知識・情報を得て、それを持って自らの課題に向かえる力-としている。

この学力観の変換も大いに頷ける。だとすると、学力を子どもたちにつけていく我々教員のやるべきことも変わってくるはずである。

しかし、この学力観の変換が学習を変換させるには大きな障壁があると言わざるをえない。なぜならば、知識をため込むことを学力としたほうが、我々教員にとっては、実は都合がよいからだ。
その理由は以下の通りだ。

1.教員自身が知識をため込む学習をしてきている。人は自分の受けてきた教育を肯定しがちである。また、学習者としての経験のないものを教師として教えるのは難しい。
2.知識の定着の具合、知識量はテストによって客観的に把握しやすい。「学ぶ力」を客観的に判断することは難しい。

ここで論じたいのは、2についてである。
単なる知識を問うテストに対する批判は長く教育界にある批判だと思う。
しかし、批判があるものの、それは無くならない。
なぜだろうか。

知識の定着の具合や知識量はテストで測りやすい(もしくは測れていると考えやすい)。
テストで測れるということは、学習の伸展が見えやすいということだ。
学習の伸展が見えやすいということは、教員が自らの教育活動の有意を確認しやすいということだ。

教員はきっとみんな不安だ。
あえて「みんな」と言ってしまおう。
自分は不安だ。
常に自分の今の授業、今の子どもの見方、今の言葉、今の振る舞い…
それらが本当に学びにつながっているのか、不安なのである。
その時に、単元ごとにやるテストで、ある程度の成果が見てとれれば、
それは大きな安心につながる。
ああ、自分のやっていたことは間違えではなかったのだと。
テストで子どもの成果を可視化するのは、子どものためよりも、ひょっとしたら教員のためなのかもしれない。

であるならば、新しい学力観の定着には、知識を測る従来のテストに変わる評価観が大切になってくるのだろうと思う。
この本にも新しい評価の例として「パフォーマンス評価」が挙げられている。
しかし、新しい学力観と評価がいまいちしっくり結びつかない気もする。
学ぶ力はどこまで可視化できるのであろうか。

ただ、教員が自らの教育活動を肯定できるような仕組みは絶対に必要である。
それが新しい学力観、新しい学びを推し進めることに繋がるのだと思う。


私自身は、その仕組みの構築を待たず、来年以降、踏み出していこうと思う。
この本で提示された、新たな学力観や新たな学びを下敷きにし、
岩瀬実践をなぞりながら、
私にできる学習を追求していってみたい。
それはもう、気づいてしまったからだ。
このままではいけないと気づいてしまったからだ。

立ち止まって考え、踏み出す勇気を得る時間が必要だったんだと、そう思う。