2016年12月31日土曜日

学ぶ場を選ぶということ

2016年も終わる。
2学期印象的だった授業を振り返りたい。

4年生の社会では、教室以外の部屋も使って授業をした。
と言っても、教室以外の部屋にみんなで移動して授業をしたわけではない。
社会の授業中は、教室以外の部屋に自由に移動して、学べるようにしたのだ。

教員は僕ひとりである。
どうやって授業をしたの?という疑問が浮かぶかもしれない。

実は、今年度の社会の授業では講義はあまり行っていない。
一般にやるような、先生が黒板にチョークで板書しながら、学習内容をかみ砕いて伝えていく、という形態はとっていないのだ。

子どもたちが自分たちで出し合った疑問を、各々で、時に協力しながら答えを探していくという授業をやっている。
4年生の社会の内容は、上下水道などの水のことやごみの処理、防災など、子どもたちがもともと生活の中で経験している内容を扱う。
身近なことなので、疑問も持ちやすい。
(疑問を文章にし、共有することは、本などを参考にして丁寧に行った。)
疑問が湧きさえすれば、知りたいという意欲も湧いてくる。
意欲さえあれば、僕が教えなくても、子どもたちは熱心に教科書を何度も読むし、補足資料を用意すれば、それもしっかりと読み込む。
そのうち、自分たちで資料も持ち込むようになった。

これまで自分の講義にはちょっとした自信があったから、講義をしないなんて授業は想像できなかったけれど、やってみたら、目の前の子どもたちがとても熱心に資料を読み、それをもとにレポートを書き上げるのだ。
(もちろん、苦労が無かったわけではないけれど。)
講義の気持ちよさを放棄するのはちょっとした抵抗があった。だけど、それよりもそんな子どもたちの姿を見られることのほうが喜びだった。
話を聞き続けることが困難な子が、集中している姿には驚かされた。

ただの自習にはならないように、子どもたちが関わり合いながら学ぶようには促していった。
と言ったら、なんだかたいそうなことをしたように思われるかもしれないが、基本的には授業中のおしゃべりはご自由にと伝えたり、関わり合いながら学ぶ意味みたいのをちょっと難しめにもったいぶって伝えたり、それを実感できるワークをしたり、ちょっとしたことを積み重ねていた。

ここまでが1学期の話。

2学期になって、自分が講義をしないなら、子どもが同じ場所に全員でいる意味は無いなと思った。
石川晋さんの本で書かれていた、校内の好きな場所で文を綴る子どもたちを想像したら、なんだか素敵で、それを真似てみようとも思ったのだ。

基本は教室で机をつけあってグループの形で学ぶこととした。
それに加え、教室に隣接したワークルームや多目的ホールを開放した。
PTA集会室はサイレントルームと称して、1人で集中したい人が行くおしゃべり禁止の部屋にした。

普段の授業で「自由なところで勉強してきていいよ」なんていうことは初めてだったので、とても緊張した。
自分の目が行き届かなくなることで、統制がとれなくなって、無駄なおしゃべりやわるふざけだけで時間を過ごす子が表れてしまったらどうしようとも思った。
そういう子が周りの子どもの学習を邪魔してしまったら台無しだ。
その懸念が強くあって、踏み出すことがためらわれた。

考えても懸念を払しょくできる案が浮かばなかった。
そこで、一番の正攻法?に出ることにした。
その懸念を子どもたちに素直に伝えたのだ。
すると、「大丈夫」との答え。そこでそれを信じて任せてみることにした。

やってみると、僕の懸念は的外れだった。
もちろん、騒がしくしてしまう子がいないわけではなかった。でも、騒がしいことが苦手な子は、別の場所に移動していくので、それが大きな摩擦を生み出すことは無かった。
騒がしくしている子も、聞いてみると、関係のないことで騒がしくしているわけではなく、学習内容のことをしゃべっていた。
これまでは、「静かにしなさい。他の人に迷惑だ。」なんて言ってたしなめていたが、「うんうん。そうか。なるほど。」とゆるやかに受け止めることができた。教壇からたしなめるよりも、傍らに座って受け止めるほうがずっと子どもが落ち着くことが分かった。講義をしていると、ひとりの子に時間を割くことは、講義を止めることになるが、講義をしなければ、僕の体は空く。子どもたち一人ひとりのフォローにたっぷりと時間を割けた。

サイレントルームとしたPTA集会室は、静けさが保たれていた。そこにはいつもは教室で騒がしくしがちな男の子が居て、窓際の気持ちのいい場所に机を動かして一人で黙々とレポートを書いていた。
彼にとっては普段の周りに人がいる環境が過刺激だったのかもしれない。

多目的ホールでは、6人くらいのグループになった子どもたちが、学んだことを劇にするといって打ち合わせをしていた。
広々としたホールは劇の練習にはぴったりだった。
学ぶ場を広げたことで、彼らの学習内容の表現も広がったように思った。

とにかく良い驚きの連続だった。子どもたちにとっても良い驚きが多かったようだ。2学期最後の授業で、「2学期の学習について」にというタイトルで文章を書かせてみると、学ぶ場を選べたことを肯定的に書いた意見が多く出てきた。

最終的には、子どもたちは1つの単元(学習のまとまり)で200枚以上のレポートを書いた。

「業(わざ)を授ける」と書いて授業。だから、僕たち教員は知識を伝達することに注力しがち。だけれど、学習に没頭できる時間を設け、学んでいく楽しさを感じさせることで、「学びの方法を身につけていくこと」だって大切な授業と言えると最近は考えている。
学ぶ場を選べるようにしたこの授業は、それをちょっと実現できたように思う。
それにしても、振り返って思うのは、子どもたちの「大丈夫」の言葉のありがたさだ。

去年何度も時間をとって話してくださった岩瀬先生、そして今年の岩瀬苫野講座で出会った人たちに勇気をもらった。一人では、これまで通りのやり方をとることで安心していたかもしれない。

2016年11月10日木曜日

上海の小学校に将棋の授業を見に行った話

しばらく前に、中国、上海の学校での将棋の授業を見学する機会があった。
春に学校で授業をしてくれた北尾まどか棋士が誘ってくださったのだ。

日本の文化である将棋の授業を、なぜか中国で見学するというのは何だか不思議な話だ。
ただ、他の国の学校を見てみたいという気持ちは前からあったので、同行させてもらうことにした。
と言っても、まさか中国の学校を見ることになるとは思っていなかった。

学校のある新村路周辺は新興住宅街といった感じだった。食堂のような店が並ぶ道を1本隔てると、10階建てくらいのきれいなマンションが等間隔に立ち並んでいた。
上海の中心地までは電車で20分ほど。ベッドタウンだろうか。

見学をする万里城実験学校は想像していたよりずっときれいで立派な建物だった。






高い塀に囲まれた敷地内に入るには、なんと全自動の校門をくぐる。校門の脇の警備員室で操作しているようだ。結構セキュリティーがしっかりしている。
玄関に、ちょっとレトロな感じの大きな電光掲示板があり、歓迎のメッセージが映し出されていてうれしかった。



正直、中国の人たちは僕たちには良い印象を抱いていないのではという先入観があったので、このような歓迎をされ、安心もした。
玄関に入るとガラス張りになった天井から光が差し込んでいて明るく気持ちがいい。日本の学校とは違い土足で良いようだ。靴箱がないことで、玄関はすっきりとしていて、玄関よりもロビーと呼ぶほうがふさわしい感じだ。
ロビーの中央には、なんとガラス張りのエレベーターがあって、これに乗って上へ向かった。

最上階の4階の奥に会議室があった。
20人弱で囲めそうな楕円のテーブルのある会議室に通された。しっかりとした会議室だ。
校長と主任から話を聞く。
この学校は小学校と中学校が合わさったものだそうだ。
2つある校舎のうち、こちらでは3年生までが学んでいる。生徒数は1400名。
教員数は120名。超大型校だ。日本では今は無い規模だ。
さすが中国。

将棋の授業は選択授業の1科目として行われている。
この選択授業、種類はなんと52種類もある。
ボードゲーム系だけで将棋だけでなく、五目並べ・チェス・チェッカーとある。
他にロボット工作といった理系や絵画や音楽といった芸術系もある。
毎週13:00~15:00の選択授業の時間があり、そこで3科目ほどとるらしい。
授業というよりアクティビティにイメージが近いかなと思った。
日本で言うとクラブ活動になるだろうか。それにしてもこの種類数は驚きだ。

将棋の授業は2013年から始まった。頭の訓練のためだけでなく日本の文化を知り、交流という意味もあるそうだ。
日本文化を教えるということを勧めていることに驚いた。あまりにイメージと違っていた。
1年生・2年生は入門クラスに、3年生から5年生は上級クラスで腕をみがいているという。
「将棋を学んでいる子どもに何か特徴はありますか?」
と聞くと校長先生はこう答えた。
「勝負の心が強くなった。でも「負けました」が言えるようになった。そして相手を尊敬できるようになった。」
これを聞いて、ぐっときてしまった。
「グッドルーザーになれ」子どもたちによく言う言葉だ。
負けを認め、それを活かし成長できる子になってほしいと考えている。まさに将棋の授業でそれが育つなら素晴らしいことだと思う。

いよいよ実際の授業を見られることになった。
天井が高くファンの回る部屋に入るといわゆるスクール型に並べられた机に20名ほどの子どもたちが着席していた。
先生は少し高圧的に見え、子どもたちはお行儀が良く見え、ああ、管理的なのだなと思った。予想していた光景だった。
しかし、始まってみると案外そうでもなかった。子どもたちはずっと行儀が良いわけではなく、先生もそれを咎めるようなことはなかった。
もっと中国の学校は厳しくしつけ、管理しているイメージがあったので、これは意外だった。ただ、一緒にいた人はもっとわがままな姿をイメージしていたらしい。それは一人っ子政策からきたイメージだと言っていた。
イメージでものを語ることの不確かさを感じた。

窓から外を見るとグラウンドが見えた。芝生のグラウンドを囲うように陸上のトラックがひかれていて、とても整ったグラウンドだった。

授業は詰将棋を中心に進んでいった。
子どもたち、初めは固さが感じられたが、次第に夢中になっていった。

圧巻だったことがある。
少し難しい問題に果敢に挑んだ男の子がいた。
残念ながら彼は不正解に終わってしまう。
しかし、彼の手筋は途中まで合っていたのだ。
彼の手を見たことで、大勢の子が正しい手順に気が付いた。
一気に手が挙がる。
子どもたちみんな椅子から自然に腰が浮き、何人もの子どもが前のめりになっている。
教室に必要なのは「安心」と「没頭」だと秋田喜代美先生が本に書いていた気がする。
僕はまさに将棋の授業に没頭する子どもたちの姿を目の当たりにしたのだ。
感動した。

この授業の良い点を挙げたい。
没頭できること
詰将棋には必ず正解がある。これは算数に似ている。でも算数より将棋のほうがとてもシンプルだ。算数の間違いはどこで間違えてしまったのか子どもが分かりにくい。そもそもの考え方の間違いなのか計算ミスなのか判断がつきにくいのだ。そうなると繰り返しチャレンジする気をなくしてしまう。
でも詰将棋は間違いがシンプルだ。駒の動かし方が違っていた。ならば別の置き方をすればいい。トライ&エラーがしやすい。これが没頭につながっていく。
間違うことの価値を見出しやすい
間違った手を打ってしまうことは失敗ではなく、1つの手順が間違いであることを確定できるという点で、正解に近づいたと言える。子どもたちはそれを体験的に分かっているような気がした。
前述の通りトライ&エラーがしやすいというのは、間違いを恐れないことにもつながる。
友だちの考えを参考にできる
前述のエピソードのように、友だちの手が参考になりやすい。人と学ぶということを体験的に納得できるだろう。長めの詰将棋を大きめの将棋盤を囲んで4人くらいでああでもないこうでもないと話し合いながら解いていくなんて授業は魅力的ではないだろうか。

考え悩んだ末選択し、それを振り返り次の考え・選択に活かしていく。そんなサイクルを回すことに将棋を通じて慣れていくことができるなと思った。

1時間ほどで詰将棋の授業が終わった。次は対局の時間だ。
僕はこの日のなかでは年長だろう子と対局した。きっと相当な実力者であろう。
2回やって2回とも僕の大逆転で終わった。大切なことなので繰り返す。相当な実力者であろう相手に2回やって2回とも勝った。

小学生相手に全力だった。
これもやりながら感じた良い点。

年の差を越えて本気になれる
これは教員にとって大事なことかもしれない。子ども相手に本気の姿を見せるということは、大げさかもしれないがその子をひとりの人間として尊重しているという態度ともとれる。その態度を表すことは、とても大切だ。僕たち大人が子どもに対し本気で向かい合えるものとして将棋はうってつけといえる。
心のやりとりが起きやすい
これはやっていて感じたこと。言葉も分からない。名前も知らない目の前の少年。でも将棋をやっていると、その彼と何だかわかり合える気がしてきた。
同じ盤面を挟み、互いにそこに没頭していることが共感を生んだのだと思う。また常にこの子は今何を考えているのだろうと考えていた。相手のことを考える感度を高めていくことが容易にできそうだ。
振り返りが文化としてある
これは今回出来なかったが、将棋には感想戦という振り返りがある。これが特徴的だ。勝った相手、負けた相手がともに振り返るのだ。振り返りの学習効果はここ数年非常に多くの場で語られている。勝者と敗者がともに振り返る経験は貴重だし、将棋でそれを学ぶことで様々な場面に応用が利きそうだ。

そうそう、対局をした図書室は、カラフルな家具やカラフルな室内装飾がほどこされていた。決して派手ではなく、落ち着きを与えてくれるような空間で、何だか豊かな感じのある図書室だった。

上海での将棋の授業を見学したことは、考えていた以上に素晴らしい体験だった。
僕の中国への思い込みのずれに気が付け、より中国を身近に感じられるようになった。

また、将棋を教室に持ち込み全員で学ぶことの魅力を感じた。チャレンジしたいと思わせるには十分な子どもたちの姿・表情だった。

行って本当によかった。

世界にはどんな学校・教室・授業があるんだろう。たくさん見てみたいなあ。


2016年9月3日土曜日

教員とわたくしの線引き 原爆体験伝承者プロジェクトに参加した理由から

フェイスブックではたびたび投稿しているが、国立市による原爆体験伝承者プロジェクトの一員である。

自分が経験をしていないことを語って、それが果たして人の心に伝わるのか。そのことは語っている僕自身が葛藤しながらやっている。広島・長崎になんらかのルーツを持つ他の多くの参加者と違い、僕は広島・長崎に特別なルーツを持たないこともいっそうの葛藤を生む。

それでも、平和に貢献するという目標に明確に逆行するものと感じない限り、僕はこの活動を続けていこうと考えている。(ぜひ機会が合ったら語らせてほしいと思っている。)それは被爆者の方からつらい思い出を聞き出した責任があるということと、そして何より自分自身のために続けていこうと思っている。
そう、この活動は自分のためにやっているのだ。そもそもプロジェクトに参加することを決めたのは次のような理由からだった。

小学校教員をすることで実現したい大きな目標は世界平和だ。全ての人々が自らの生をいきいきと生きられるようなそんな世界を実現したいと考えている。そのためにまずは小学校6年間で平和について考え、できれば実感を持たせたいと考えている。そして将来、そうやって育った子たちが平和についてのビジョンを持ってそれぞれの場所で活躍することが、世界を平和にすることにつながると信じて仕事をしている。
だから、ことあるごとに平和の貴さを子どもたちの前で語ってきた。そして、それを実現するためには人がそれぞれ平和のために行動することが大切だと語ってきた。
でも、そんなときいつも、自分を斜め後ろから見ているもうひとりの自分がささやいていた。

「偉そうに言うけど、お前、何かやってんの?」と。

このささやきはいつも僕を苦しめていた。
原爆体験伝承者プロジェクトに参加したのは、このささやきに対し答えるためだった。


教員の中には、「教員としての自分」と「わたくしとしての自分」を分けるべきだという人もいる。
つまり教員として語ることと、わたくしとして生きる自分の間に齟齬があってしかたないという考え方だ。
とてもよく分かる。子どもたちに模範を示すことが良しとされる教員を生きるのに、私生活までそれを求められるのは窮屈でしんどくなってしまう。

でも僕は、その窮屈さよりも子どもたちの前で自分が出来やしないことを、さもやっているかのように偉そうに語ることの不誠実さのほうに耐え切れないのだ。
「平和をつくっていくためにはひとりずつの行動が大切なのです。」と語りながら、自分がそれをしていない不誠実さがいやなのだ。
僕は「教員としての自分」と「わたくしとしての自分」の線引きがうまくできない性分らしい。

もともといい加減な人間だから子どもたちに模範を示すという役割はずいぶん早くに放棄してしまった。(卒業生はよく分かっているだろう。)
子どもたちとともに生きるわたくしとして教員をしている。
それでいいと思っている。

もちろん時には出来やしないことを語ることがある。そういう時は正直に「僕も苦手なんだけど…」と言ってしまおうと思っている。
やってみると子どもたちにはそれでも伝わっていく。
模範さが子どもたちを引っ張っていくやり方もあるだろう。
しかし共感を持って一緒に考えていくような、そんなやり方だってあるんじゃないだろうか。

教員として立つのではなく、わたくしとして立つ教員でありたいと思う。

2016年7月25日月曜日

苫野一徳・岩瀬直樹による「教師の学校」という講座に参加して

昨日は教育哲学者の苫野さんと稀代の教育家である岩瀬さんによる講座「教師の学校」の第2回だった。
僕はこの2人から多大な影響を受けている。
今日は個別化と協同化の融合についてが主なテーマ。
個別化というのは、学校での学びを、個々人のペースややり方、興味関心を尊重した形にしていこうという考え方。
授業というと、教師が説明し、子どもはそれを聞き、合図とともに課題に向かい、一律の時間で解説が始まる…というのが一般的なイメージだと思う。
個別化はまったく違う。
例えばそのやり方の一例は、一週間に最低限やることは教師が提示し、子どもたちがそれをもとに計画表を作成して、それに沿って学習を進めていくやり方。教師が一斉に授業をすることが無くなるので、時間割はゆるやかになり、子どもの裁量に任される時間が多くとられる。ある子は算数の問題を解いているけど、ある子は漢字ドリルをやっている、そんな光景が当たり前になる。
別のやり方では、学びの場の個別化があった。これは校内のどこでも、自分が学びやすい場所を選ぶというもの。教室だけでなく、図書室や外のベンチなど、子どもたちは思い思いの場所で学ぶ。教員はその時間、子どもがいる場を探しながら、アドバイスをしていく。
想像できただろうか?これまでの当たり前とは違うが、そういう授業が実際に行われている。
ただ、個別化だけだと孤立化につながっていってしまう。
公文と変わらない。
ここに子どもたちが共に学ぶ意義を考えていくというのが、個別化と協同化の融合という今日のテーマだった。

講座の初めは「自由の相互承認」についての参加者の実践の話。
この自由の相互承認というのが苫野哲学の芯を成す。
簡単に言えば、自分が自由であるために、周りの自由も認めていこうという姿勢や感度を育むことこそ学校でやっていくべきでしょうと苫野さんは考えている。
これについては詳しくは「どのような教育が「よい」教育か」とか「教育の力」といった苫野さんの著書をぜひ参考にしてほしい。

とは言うものの、僕のグループは具体的な実践にはあまり話がいかなかった。
「自由の相互承認」の途上にあると話し始めたある先生の話に時間をかけたのだ。
学期途中に家庭の都合で転入してきた子。
望まない転校。DVの記憶。
心の体温が下がり切っている子が、クラスの温度も下げていく。
おそらくその先生の気持ちも冷ましたのだろうと感じた。
嘘や物取り、人を傷つける言動、転入生のネガティブなエピソードが次々と語られる。
打ち切らなければまだまだ出てきただろう。
「個別化とか、そういうこと言っている段階にはない。」
そう先生は話した。
そこに少しの引っ掛かりを感じてた。

一日たって思う。だからこそ個別化なのだ。
だって、その子の事情は実に個別的だからだ。
そのような背景を背負っている子を、ほかの子と同じには接することはできないだろう。
学習の個別化は、それぞれのペースや興味を認め、尊重していく学習方法と言える。
では、それぞれの性格や振る舞いや生き方を受け止め、認め、尊重していく生活の個別化はできないのだろうか。
できるのではないだろうか。
個々の学びが尊重される学習の個別化が成立している学級なら、学習を生き方に置き換え、生活の個別化も叶えやすいのではと思った。

そんな話をあの時にできればよかったのかもしれない。

その後、他のグループでの話し合いを聞く時間になった。そこで、学習の個別化に踏み出している教員が複数いることを知った。
子どもが自分の興味関心、ペースを考え学習計画をたてる。それに沿って、自ら学習を進めていく。
そんな実践を数名から聞いた。
一般の授業とは離れたことをやっているから、もっと特別なオーラをまとった先生方かと思ったが、むしろたたずまいは普通だった。
でも、そういう人たちが個別化に踏み出していた。
そして一様に、「やってみたらできた」と言う。
きっと「やってみたらできる」のが個別化なのだと思う。
だって、個別化のほうが、あきらかに子どもたちの持っている力を阻害しない学習方法だ。
今の「全員で同じペースで学んでいきましょう」という学習方法のほうが、実はずっと無理を押し通していると言えるだろう。
どっちがやりやすいかって、答えは見えているのではないだろうか。
「えいや」の思い切りで個別化はやっていけると感じた。

次に読んだ岩瀬さんの資料は圧巻だった。
実は1学期から受け持っている社会の授業で「自由探究」という方法で学ばせるようになり、自分なりに手ごたえを感じていた。
やり方は違えど、うまく言えないが、岩瀬さんの実践に少し近づいたんじゃないかと思っていた。
が、今日の資料でその背中がすごい勢いで離れていった。

僕は子どもたちが「学びを進めていく」ことを目の当たりにし、その力を確信し、そう確信できたことに、少し満足していた。
でも、岩瀬実践では子どもたちはさらに、「学びを計画」し、「自己評価する」ことまでやっていた。
ぐうの音も出ない。
それらが身に着けば、ひとりで学んでいく素地が完成する。
小学生でそうなれば、どれだけその後の学習を自分のものにできるか。
教科の細かい内容なんかよりずっと大切で有用で、意味のある学習だ。

ああ、また背中が見えなくなった。

苫野さんの話は、もうその通りだよなあという共感する話。
パーカーストの引用は特に突き刺さる。
「自由とは、自分の必要なだけの時間をとることである。他人の時間でするのは奴隷である。」
つまりこれまでの学校は、社会の奴隷を作る機関だったんだなと思う。
誰かはそれを自覚的に、そして教員はそれを無自覚に良かれと思ってそうしてきた。
今がそれを変える時なのだと思う。
僕たちが変える世代になれるのではないだろうか。

うまっちの実践報告は、もうね、分かっていたから。
かっこよかったなあ。あまりにかっこよくてまっすぐに妬んでしまいそうになる小さい自分に出会った。
一方で、うまっちの語らない努力を知っているつもりなだけに、何とも言えない気分にもなった。

再び話し合いの時間。
それも面白かったけど、その後の岩瀬、苫野両人の話が強さを持っていた。
「本当に協同化がベースなのか?」
これには揺さぶられた。
僕ははっきり言いたい。
個別化が大前提だ。個別化が成らない協同化は、全体主義や同調圧力から逃れることはできない。
個別化がまず意識されることは最重要だろう。
とは言うものの、その考え自体が安易な二項対立を用いる「問い方のマジック」に嵌まっているのでは、という意見にもはっとさせられた。

そして、最後の参加者の鋭い投げかけ。
「小中学校でルールを作る経験をしていないから、高校でははじめからあきらめている。」
がつんと頭を殴られた。

本校の年度初めの生活指導のプリント。
僕が働き始めた14年前に比べ、ぐっと分量が増えている。
誰も悪意を持って増やしてはいない。
子どもたちの生活が円滑になるように、先回りして先回りして、やってはいけないことをあらかじめ教えている。
良かれと思ってやっていることだ。
そのことで子どもたちは失敗やぶつかりを回避していく。
そして、自由と自由がぶつかることもない。
ぶつからないようにデザインされた自由の中で過ごすのだから当然だ。
子どもたちは困らない。
一見問題ないように思う。
でも、その投げかけに僕は自問自答する。
自由と自由がぶつかる経験。
そこから自分たちでルールの必要性に気が付く経験。
ルールを創っていく経験。
成熟とともにルールを更新していく経験。
その経験から生み出される社会の主体者たる意識。
ああ、僕たちの良かれと思った先回りは、目の前の衝突から彼らを回避はさせられるけど、そのかわりに、これらの経験や意識を涵養する機会を、根こそぎ奪ってしまっているのではないだろうか。
ともに生活するときに必要なのは、ルールなんだけど、本当の本当に必要なのは、ルールを創りだし更新していく経験なんじゃないだろうか。
ああ、この気持ちを学校の人たちと共有したい。強くそう思う。

講座後の飲み会も刺激的だった。
暗くなる話が多く、僕もその話を引っ張ってしまったが、実は希望も持っている。
僕は日本の教育や学校、社会は、いまだ民主主義の完成の途上にあると思っている。
形式上は民主主義だけれど、本当に国民が主体者となる経験はまだまだ不足していると思っている。
逆に言えば、まだまだ教育、学校、社会は可能性に満ち溢れていると思っているのだ。
良くなる余地がたくさんある。
それって希望だ。
僕たち教員はその希望に貪欲に飛び込んでいけばいいのだ。
どっかで自分はそれができるんじゃないかと、自分に期待している。わくわくしている。
そう思っていることに今書いていてたどり着いた。


2016年7月2日土曜日

強い声を出したことで、子どもを正しい方向に導けたと思った日の話

4年生授業では、ごみの学習終わりにさしかかっていた。
まとめとして新聞づくりをやろうと考えていたので、その前に、子どもたちにこれまで学んできたことを振り返させることにした。
今回は自由探究と名付けたごみに関することを個々人で自由に調べる時間を大きくとった。
(この自由探究については、来月にでもまとめたい。)
そうすると、教員が一方的に教えるのではないので、ひとりひとり学んだことが変わってくる。
大きめのホワイトボードを4人に1つ用意して、それぞれが学んだことを出し合い、リストにさせることにした。
そこで会話が生まれれば、それぞれの学びが共有されると思ったからだ。

やり始めると、うまくいくグループとそうでないグループが現れる。
学習の振り返りを子どもたちに任せるのは初めてのことだったので、戸惑うことは想定していたので、あわてることはなかった。
ひとりひとりが自由探究を深められていたのは確認しているので、共有がうまくいかなくても、まとめにはうつれる。
むしろ今回うまくいかなくても、それを次の機会の糧にできればいいと思っていた。

とは言うものの、うまくいかないグループを中心に見て回りながら、ひとことふたこと声はかけていった。

ある班の男の子、ススは、勝ち気な女の子が中心となって進めているのが気に食わないのか、着々とリストが書き足されていくのを横目に、ホワイトボードの片隅に何やら落書きをしていた。
「スス、この前調べてたあのこと、すごくうまくまとめられていたよ。それをリストに付け足してごらんよ。」
と声をかける。
彼の提出物を認める良い活動への促し方を選んだつもりだ。(実際に良いものを提出していた。)
顔をあげるスス。うなずいている。
安心して、別のグループのところに向かった。
5分ほどして、ススのグループに戻る。
すると彼は落書きを続けていた。しかも、今度はホワイトボードの片隅ではなく、余白いっぱい、ボードの半分くらいを使った大きな大きなまき○その絵だ。
その下品な絵が、他の3人が書いたリストを浸食しかけていた。
「スス!」
思わずドスの利いた大きな声を出してしまった。
普段は出さない声の出し方をした。ススの背中が伸びる。気まずそうに、少し怯えながらこっちを見る。
小さな声で「ごめんなさい。」と言った。「ちゃんとやりなね。」いつもの穏やかな声でそう伝えた。

やってしまったなあと思った。子どもたちの自主性を大切にするのに、教員の大きな声は彼らを縛るものになりかねない。
これまでの授業では極力抑えてきたつもりだった。
でも、かっとなって言ってしまった。でも、あの場でどうすればよかったのだろう。

授業の終わりに、意外なことにススがホワイトボードを持ってきた。
いたずら書きは無く、きちんと学んだことがリスト化されて並んでいる。
「おっ、うまく作れたね。」
声をかけると、ススははにかんだ笑みを浮かべた。

『ああ、あそこで大きな声を出してしまったけど、結果として正しかったんだな。よかった。』
と思った。
自分では出すまいと思っていた大きな声だけれど、そこでああいう手段をとったことで、今日の学習がススにとっていいものになったようだ。ススにとっても、メンバーにとっても良かったんじゃないか。そう思って安心した。
やっぱり大きな声を出さざるをえない場合は存在するんだろう。今日はその場合だったんだ。



でも、頭の斜め後ろくらいから声がする。
「本当にそうなのか。」
自分を斜め上から見ている自分からの声だった。
今年は日記をつけている。日記をつけるようになると、日常の中で自分を少し離れたところから見つめる自分が現れるようになった。
「本当に、大きな声を、ドスの利いた声を出すことは、手段としていいことなのか。成功体験として収めていいことなのか。」
そいつがさらに問い詰めてくる。
「だから、ススくんは、それでうまくいっただろ。」
振り払うように答える。
「では、周りの子たちはどう思っただろう。クラスの子たちはどう思っただろう。」
「クラスの子たちは…怯えた子がいるかもしれない…。」
「その子が怯える必要はあったの?」
「悪いことをしていた子は叱られるって、それで分かったかもしれないじゃないか。」
「悪いことをしたら叱られるってことは、そんなやり方じゃないと伝えられないことなの?
そもそも何もしていない子を怯えさせるって、それは悪いことじゃないの?
まき○その絵を描くことは、もちろん褒められることじゃないけれど、中年の体格のいいおっさんが、ドスの利いた声を教室に響かせることは許されることなの?」
僕が僕を責めるような質問をしてくる。
「うう…。もしかしたら、…よくなかった…かもしれない…。」

このあたりから、斜め後ろから質問を投げかけてきた僕が僕の中に入ってくる。
自問自答は続く。
何が悪かったのだろう。ドスの利いた声は、脅しだ。(実際にドスの語源は脅しからきているそうだ。)
脅しとは暴力性を含むだろう。
悪い行動に対し、僕は力をちらつかせた。
結果として悪い行動はおさまった。が、それはもしかしたら、悪い行動に対しては、暴力にも似た力をちらつかせてもいいという、そういうメッセージを子どもたちに送ったのではないだろうか。
そこまで考えが進むと、今日の自分の行動に強い後悔の念が襲ってきた。

今日の行動はどうしたらやり直せるだろうか。
子どもたちに今日考えたことを正直に伝えてみようか。
また同じような場面に出くわしたときは、今日の後悔を思い出して、別の方法をとりたいと思う。
僕の行動は、自覚的であれ無自覚であれ、すべて子どもたちへのメッセージとなる。
この日、それを改めて意識した。



2016年5月29日日曜日

授業の形を変えてみた

 春から、担任は持たないことになった。授業も少なくて3・4年生の社会科のみ。失ってみてあらためて感じるけど、クラスを持つって喜びだったんだな。
 ただ、少ないながらいいこともある。初めて担任ではなく、社会科専科になったことで、いくつかのクラスを並行して、客観的に見ることができるようになった。だから何ができるっていうのは、今はまだ掴み損ねているんだけど、これから必ず見つけようと思っている。それから、自分のクラスが無いからこそ、学校にいる子どもたち全員を大切にしようと改めて思えるようになった。とりあえず、目が合った子やすれ違う子全員に声をかけるようにしている。
 それから大きかったことが、中学年の社会科を教えるのが、自分ひとりなので、授業のチャレンジがしやすくなった。今までも、それなりに思い切った授業をしてきたつもりだけど、隣のクラスと歩調を合わせる努力はしてきた。今はそれを気にせずやれる。

 これまでは、チョーク&トークと言われる、黒板に板書をして、子どもたちはそれをノートにうつし、そして自分は解説をする、という形態を多くとってきた。全員の机が黒板側を向く、いわゆる一斉授業だ。多くの人が受けてきた授業形態だろう。この形態は、大勢の子どもたちに、一斉に同じだけの教授を与えることができる、とても効率のいい形態だ。ただ、一方で、子どもたちが常に受動的になりやすい面がある。教える側に工夫がないと、授業は非常に退屈なものになる。同じだけの教授をしたはずが、受けるほうの態度次第で、吸収する量は雲泥の差になる。だから、できない子は、その授業態度が取りざたされたりして、特に小学校では、「聞く態度」みたいな指導が多くされることになる。この「聞く態度」、きちんと学ぶために指導していたはずが、管理のための指導に気づくと変わっていきやすい。これには大きな違和感を持っていた。
最近はこれを思い切って変えた。グループで取り組むことを重視した授業をするようになった。4人、ないし6人一組で机を合わせ、授業を行っている。
変えようと思った理由は、授業観の変化だ。これからの授業では、いわゆる知識の取得以上に、人と関わりながら学び合っていくことを学ぶという、学び方の学びが重要になると考えたからだ。
これまでもやってきたグループで何かを作り上げる活動の他にも、今までは個人でやらせていたプリント学習のようなものも、子どもたち同士が話し合いながらすすめている。
これまでなら、教科書とノートを机に置かせて、自分が黒板に要点を書き、子どもに一問一答のような形で質問を投げかけながら、解説をしていくという授業をしていた。しかし、今回は、問題が書いてあるプリントを配り、5分以内の簡単な説明をし、あとは子どもたちに一任してみた。僕から伝えたことは以下のこと。①まずは教科書などをよく読み、自分の力で取り組む。②じっくり取り組んでみても分からないことは、グループの中で分かっている人に教えてもらう。③教えを乞われた人は、笑顔で教える。④乞われてもいないのに教えるのはぐっと我慢。この4つを伝えた。
この形態にすることに不安があった。1番の不安は、果たしてこのやり方で、全員がしっかり学べるかということだ。自分で考えることを放棄して、一方的に教えてもらうばかりになる子がいるんじゃないかと思ったのだ。そしてそれに付随して、学級の中で教えると教えてもらうの関係性が人間関係の上下につながることも懸念された。
しかし、いざやってみると、その不安は杞憂であった。考えることを放棄して、初めから人を頼りにするような子は今見ている限りいない。どの子も、教科書を自分のペースで読み、分かったときはしっかりプリントに記入していた。振り返ってみたら、考えることを放棄する姿は、むしろ、一斉授業のときのほうが、顕著に現れていたようにさえ思う。解説を受け身で聞き、頭で考えもせずノートにうつしていた子が少なからずいただろう。また、関係性は今のところ流動的だ。特に社会科の場合、自分の考えを書かせる項目も多く設定できるので、そのような項目では、互いに刺激し合いながら取り組めているようだ。
子どもたちに任せる部分が大きいので、その分僕は余裕が生まれた。これまでは、解説をしながらちらちら視線の端に映っていたやる気を見せない子に、大げさなパフォーマンスでひきつけようとしたり、全体に話す形で間接的にやる気を促したり、それでもうまくいかない場合は強く注意をしたりもしていた。今は特に僕が黒板の前にいる必要もないので、その子の傍らまで足を運び、話をしながら学ぶ手助けをできるようになった。
もちろん課題も感じている。今のところ、彼らが学ぶことは教科書にとどまっている。自分の解説を中心に据えていたときには、教科書にのっていないこともたくさん話すように心がけていたから、そういう意味では学ぶことは少なくなっているかもしれない。ただ、この部分も子どもたちに任せようと思っている。次の単元では、自由探究という時間を設け、子どもたちが自らどこまで探究できるのか、見てみたいと考えている。
一番うれしく思うのが、前のめりの子が多く見られることだ。椅子からお尻をはなして、くっつき合わせた机の真ん中に向けて、顔を突き合わせ話し合っている。もしくは隣の子と顔を近づけて話し合っている。そんな光景が多く見られるようになった。僕は「姿勢を正して常に前を向いていなさい」という「聞く態度」の指導はしなくなった。何よりいきいきしている子どもたちの姿を見るのはたまらなくうれしいのだ。


この授業の参考にしたのは、「学び合い」や「学びの共同体」と呼ばれる考え方だ。これまでになかった授業が生まれてきている。柔軟に取り入れる姿勢を持っていたい。実はそれは僕にとって簡単なことじゃない。自らの成功体験にとどまってしまいがちだったり、案外保守的になりがちだったりする。それでも、目の前の子どもの今と未来のために、よりよいものを模索する勇気を持ちたいと思う。

2016年4月30日土曜日

教えることを手放す教師




写真は愛する4歳の息子である。寝る前の歯みがきの時間だというのに、トミカの道路を組み立て始めた。
「早く寝かせて」という妻の強い視線を感じながら、しばらく様子を見ていた。

このトミカの道路、トミカシステムという規格で、実によくできている。
灰色の道路と黄色い道路の2種類が主となる。灰色と黄色い道路、それぞれ直線と曲線のものがある。
黄色い道路がポイントとなる。この道路を一つ使うと、緑の橋脚一つ分、高さが変化するのだ。
橋脚にも2種類あり、緑の橋脚は黄色い道路1つ分の高低差を支え、茶色い橋脚は緑の橋脚4つ分もしくは8つ分の高低差を支える。
このほか、我が家では、橋脚3つ分の段差のあるジャンプ道路と、8つ分の段差のある急坂がある。
言い忘れたが、黄色い曲線道路は裏にLの刻印のある左回りのものとRの刻印のある右回りのものがある。

お分かりいただけただろうか。
お分かりいただけていないのではないだろうか。
子ども向けのおもちゃながら、なかなか複雑なのである。

初めてこのおもちゃを手にした息子は、当たり前だが、これを組み立てることはできなかった。
ただ、壊して分解することにはずいぶん早くから天賦の才を見せつけ、妻が組み立てたそばから、彼は分解を始め、あげく車を走らせられなくなり、泣き出していた。自業自得である。

父親である私は、初めから仕組みを理解することを放棄し、たまに組み立てるものは、灰色の道路だけを使ったぺったんこの一周道路のみであった。
すぐに息子は私に組み立てを頼むのをやめた。
自立を促す教育者らしい対応である。

初めのうちは父親ゆずりの単純な道路しか組み立てられなかった息子だが、
半年を過ぎたあたりで、気が付くとトミカシステムマスターにと成長していた。
伊豆の河津七滝ループ橋のようなぐるぐる道路から、途端に急な坂に突入するような、
実際にあったらいやがらせとしか思えないようなアクロバティックな道路をいとも簡単に作るようになっていた。

妻も私も特に作り方を教えたことはない。
つまり、彼は自ら試行錯誤の中で、複雑な仕組みを学んだのだ。


「すべての人は有能である。」
これは昨年大学院で学んだ最大のことである。
もう少し言葉を変えれば、「すべての人は学んでいく力を持っている」と言えるだろう。
それを、もっとも身近な存在から教えられ、実感した。

ただ、それをすぐに学校教育に置き換えることはできないだろう。
息子がトミカシステムをマスターしたのは、それが彼のやりたいことだったからだ。
学校教育では、学ばなくてはいけないことが決められており、やりたいことだけを学ぶことは許されない。
だからこそやりたくないことは、私たち教師が教えていかなくてはならない。
教師がいる理由はそこにある。



でも、本当にそうだろうか。



私たちが、学ばせなくてはならないことを、手を変え品を変え、努力しながら教えこんでいくことで、もしかしたら、子どもたちが本来持ち合わせている自ら学び取っていく力を損なわせているのではないだろうか。
そもそも「私たちが教え込んでいること」は「自ら学び取っていく力」よりも大切なことなのだろうか。
もしかしたら、自ら学び取っていく力をこれまで以上に尊重することができたら、私たちが教え込んでいることさえも、彼らは学び取っていけるのではないだろうか。

最近はそんなことを考えながら授業を構成している。
教えることを手放し始めている。
教えることより、学び取る力を尊重し、さらに引き出せないかと模索している。
教師(教える師)ではなく、スタンドバイミー師になろうかなと思うのだ。

スタンドバイミー師、流行らないかな。流行らないだろうな。


2016年4月1日金曜日

人の力を信じる

4月になってしまった。新年度。
3月の後半には職場に復帰していたので、「今日から!」なんて感じは無いのだけれど、でも、学生で無くなってしまったのだなと改めて思う。

建前上は、昨日まで、東京学芸大学教職大学院の学生だった。
教職大学院というのは、教職に特化し、理論だけでなく実践を重視した専門職大学院で、その特徴は学部から直接大学院に進学する学卒生と、教員として現場である程度の経験を積んだ現職院生がともに学ぶところにある。
自分は現職院生として、1年学んだ。

院への進学を決めたのは、2つの理由がある。
1つは学校をよくしたいと思ったこと。もう1つは自分自身が成長したいと思ったことだ。

30も半ばになり、クラスだけでなく、学校全体を、子どもたちにとって幸せな場にしたいと思うようになった。
そう書くと、なんだかきれいだが、ここには書くことがためらわれる、もっと後ろ向きのぐじぐじした思いがあった。
私立学校の良いところは、異動が無いために、その学校に「自分の学校」という意識を強く持てるところだ。
僕は自分の学校をもっと良いところにしたいと思った。でも、思いがあっても、その方法は分からなかった。そりゃそうだ。今まで良い先生になる勉強はしてきても、良い学校を作る方法は誰も教えてくれなかった。
それを学びたいと思った。

そしてもう1つ。働きはじめて10年を過ぎたあたりから、自分の成長を感じることが少なくなってきた。
新任から数年は、とにかく無我夢中で、手あたり次第やりたいことをやって、うまくいったり失敗したり、試行錯誤の連続だった。
そのころは、自らの成長を実感することが多くあったように思う。
でも、ここ数年は、自分の中に煮詰まり感を持つようになっていた。
それは、日々の忙しさの中で見ないようにすれば気にしないこともできたのだけれど、常に胸のつかえになって、しかもだんだんと大きくはっきりと自分の中に居座るようになっていた。
「このままでいいのか。」「同じことを繰り返しているんじゃないか。」「うまくいく方法だけを選んで、小さくまとまっているんじゃないか。」「そんな人間は魅力的と言えるのか。魅力的でない人間が、これからを生きる子どもたちの前に立つって、そんな不幸はないんじゃないか。」
煮詰まり感は、そんなことをつぶやいて、自分を苦しめた。
僕はそれを打破する、何かきっかけがほしかった。

それでも院に行くという決断は勇気のいることだった。
仕事では、それなりに責任のある仕事を任されるようになり、特におととし、院に行く前年に大きな仕事を任されていた。
慣例では3年程度やるべき仕事を投げ出すことは異例であり、無責任にも思えた。何より、そうしたときの周りの反応が恐かった。
それに、教員になってから12年、クラスの子どもたちのためにひたらすらに打ち込んだ自負はあったが、その反面、研究会などへの参加は皆無で、つまり勉強への自信は無かった。
さらに、院への進学となると、もちろん試験がある。
ただでさえ6年生担任で忙しく、それ以外に大きな仕事が任されていて、とてもじゃないが試験のための準備の時間はとれないように思った。

院に行くことを考え始めたのは、今から3年前だったが、そんな理由があり、一時は進学をあきらめようとも考えていた。
勇気が萎えてしまったのだ。

それでも、結局院に挑戦することにした。なぜか。やはり前述の2つの理由が大きい。このまま何も変わらずに仕事を続けることは、何か欺瞞を抱えたままのようで、その後ろめたさが、自分の背中を押した。
妻の応援も大きかった。
「迷ってるなら、行きなよ。行かなかったら後悔するんじゃない。」
そう言ってくれた。


そして、院に進学することができ、1年学ぶことができた。
本当に素晴らしい1年だった。
院に来て良かった。散々迷って決めた進学だったが、今は院に進学しなかった自分を想像できないくらい、意味のある大きな大きな1年だった。


学んだことは多くあるが、1つだけあげるとするなら「人の力を信じる」ことになるだろう。
人は学ぶ力があり、成長していけるし、していこうとするものである、そう学んだ。

これまでも、子どもの力を信じて授業をしてきたつもりだった。
でも、そんな自分のやってきたことが、うわべだけに留まっているように思えるほど、もっと追求できるのだと、今年知った。

学習の個別化という考え方を初めて知ったときは驚いた。
これまで自分のやってきた、いわゆる一斉授業では、教員が黒板とチョークとトークで、子どもたち全体に説明をし、それをもとに子どもたちが同じ課題に取り組むという形をとってきた。
30人を越す子どもたちに、効率よく学ばせるためには、その方法が良いと考えてきた。
というよりは、その形態を疑ったことがなかった。
もちろん、中には一斉授業では身につかない子がいるので、別の時間に個別に教えることもしてきた。ただ、基本的には一斉授業で身につけてほしいので、いかに分かりやすく、いかにひきつけるか、そういう授業を目指してきた。
それなりにそういう授業ができるという自信もあった。
学習の個別化は、そういった自分の考えとはまったく違う発想であった。
そもそも、子どもの理解のペースや学びの仕方それ自体も、個々で様々なものである、ということが前提にある。
その前提に真摯に立てば、子どもたちに一律のペースでの理解を強いる一斉授業が、いかに矛盾に満ちたものか分かるだろう。
個別化は、一斉授業を限りになく縮小し、そのかわり、子どもたちが個々のペースで学ぶことを保障していく。
教員は、その単元で子どもたちが身につけるべき内容をある程度の段階をもって示し、その段階が教科書などのどの部分に当たるかを伝え、単元にさく時間を明示する。
あとは子どもたちに学びは任せられる。
ペースの速い子(あえてできる子とは言いたくない)はどんどん進んでいく。遅い子はゆっくりと進んでいく。
それでも、子どもたちの間に確かな信頼があれば(これが個別化の成功の大前提だと思う)、遅い子の「教えて」の声に、先に進んでいる子が寄り添ってあげられる。遅い子が助けられる一方で、教える側の理解も教えることによって深まっていく。
こうして今まで教員の担ってきたことが、子どもたち同士の協働の中で担われていく。
また、一斉授業に時間を割かなければ、教員も子どもたちの支援にこれまで以上に丁寧に取り組むことができる。
子どもたちはそれぞれのペースで、しかし確実に目標に向かって学んでいくという。

初めて個別化の話を聞いたときは、そんなのうまくいくはずがないと思った。
しっかりと頭の中で検証をする前に、反射的に否定をした。
それは、自分のこれまで行ってきた授業を否定することになるからだ。
しかし、恐る恐る頭で検証し、さらに授業の様子を本や映像などで知っていくと、次第に考えが変わってきた。
様々な驚きがあったが、何より驚いたのが、信じて任された子どもたちが、自分から学んでいくという姿だった。
自分は本当に子どもたちの力を信じていたのかと問わずにはいられなかった。

院での学びでは、このように、それまで自分が疑わずにやってきたことを、立ち止まって「それの意味って何?本当に目指すべきことってどんなこと?」と問い直す機会が多かったように思う。
そういう機会を、たっぷりの時間の中で、同じような立場の人たちの中で持つことができて本当に良かった。

学習の個別化から始まり、「子どもたちの力を信じる」ことを信念として持ちそれによって成り立つ教育をたくさん学んだ。そして学校を良くする方法も、「教員の力を信じる」ことにあるのではないかと考えるようになった。
人は信じられることで、力づけられるのだ。
そんなふうに考えていくと、これまでの教員の中での自分の振る舞いを反省するようになった。僕は周りを信じてきたのだろうか。信じ、力づけてきたのだろうか。むしろ、周りを信じず、マイナス面ばかりを指摘し、悪い緊張感を与え続けてきたのではないだろうか。そのことが、周りの成長を邪魔してきたのではないだろうか。そんなふうに気付いたときは、苦しかった。
でも、きっとまだ遅くない。そう考えたい。

まとまらなくなってきたので、もう終わるが、とにかくこの1年で「人の力を信じる」ことから始まる教育を学ぶことができた。
まずは今日からの1年。僕は「人の力を信じる」ことをやってみようと思う。もちろん、1年間の学びを活かし、「人の力を信じる」ための仕掛けや、「人の力を信じる」ことを土台とした試みをやっていこうと思っている。
それが子どもたちのより良い成長につながっていくと考えている。
そして、子どもたちのより良い成長は、より良い社会や世界を作っていくと考えている。
そう、僕の仕事は世界を作っていくことに確かにつながっているはず。
それを思うと、改めてやる気が出てくる。
新しい1年、がんばっていきたい。
(より良い成長やら、より良い社会、世界についても、ぐじぐじ考えていることがあるので、またの機会に。というか、このブログは続くのだろうか。)

2016年3月6日日曜日

楕円の哲学

一昨日の研究報告会の後の成田先生が話してくださった楕円の哲学が心に残っている。
楕円の哲学、その考えの源流は内村鑑三にあるそうだ。楕円は2つの中心を同時に持ちながら、1つの形として成り立っている。
内村はその2つの中心を神と人として考えたという。
そのように、一見すると距離が感じられたり、対立関係にあるものを、無理にひとまとめにすることはせず、お互いの存在を成立させたまま、つながりを持たせることを目指していく。そんなホリスティックな考え方と解釈した。

話を伺いながら、学部時代に大好きな鷲山先生から教えてもらったアウフヘーベンという言葉が浮かんでいた。
対立する2つの考えがあったとき、どちらかを採用するのではなく、2つを同時に成り立たせる、より高次の概念を創り上げる。そう習ったように思う。
楕円の哲学とアウフヘーベン、2つの考えは似ていると感じた。そういえば、成田先生と鷲山先生も、その佇まいは似ている。
急に今と学部時代がつながった気がした。

教員としての私の2つの中心は何になるのだろうか。
一斉教授とアクティブラーニング、不易と流行、伝統と革新、こだわりと柔軟さ。
様々な中心が見えてくる。どちらか、ではなく、どちらもを可能とするような、そんな楕円を描いていきたい。もしかすると、2つと言わず、さらに多くの中心を同時に存在させられるかもしれない。

振り返れば、教職大学院での学びは楕円の哲学を実感するものだったのかもしれない。異知が出会い、時にぶつかり、新しいものを創発し、内包していく。

終わってしまうことが寂しい。

2016年3月2日水曜日

南アルプス子どもの村小学校・中学校

 衝撃だった。学校観が広がった1日だった。学校の概念をより広く考えていいんじゃないかと思えた1日。自分の当たり前が揺らいだり、少し崩れたりして、それが全くいやではなかった。
 
 中央道竜王ICから20分程度、周りにちらほら新しい住宅も見られる場所に校舎があった。思いのほか校舎は小さい。グランドからは富士山が真正面に見え、すばらしい天気だったこの日、非常に気持ちよかった。サッカーゴールや2階くらいの高さのある滑り台は子どもたちの手作りに思えた。
 中学校舎の1回に通され、説明会開始。我々のほかにスーツ姿の3人の男性(委員会っぽい)、あとは5組ほど保護者と思われる方々。説明会にやってきた小学校副校長の女性、中学校副校長の男性はともに力の抜けた普段着。スーツを着ている我々のほうがなじまない。ジーンズをはいてきて正解。
 おだやかな印象の2人は夫婦と聞いて、驚きつつも納得。雰囲気が似ている。
 学校の概要から説明が始まる。学年1クラスで20人。上の学年は20人を割っているが、近年通学希望者が増加傾向にあり、1年生は定員を越えている。小学校は126名、うち寮生が51名、通学生は75名。通学生の半分以上はこの学校に子どもを通わせるため、一家で引っ越してきているそう。(それを聞いて、甲府から勤務地への始発を調べた。開始時間にぎりぎり間に合う…)中学生は48名、うち寮生が32名、通学生が16名。教職員は20名の常勤と10名の非常勤。この中には寮の職員なども含まれる。
 まずはスライドを見ながら口頭での説明。自由な子どもを育てるために3つの自由を大事にしている。それは感情の自由、知性の自由、人間関係の自由。そのために大切にしている基本原則も3つ。教師中心主義→子どもの自己決定、画一教育→個性化教育、書物中心主義→体験学習。支えている理論はニイルとデューイ。
 具体的な特徴として、テスト、通知表、宿題は一切ないという。学習の中心はプロジェクト。クラスは学年ごとではなく、このプロジェクトごとの縦割りで編成される。小学校には、衣食住表現という要素で構成された「クラフトワーク」「むかしたんけん」「新聞社」「演劇」「おいしいものづくり」(名前はあやふやのうろ覚えである)という5つのプロジェクト。子どもたちは年始にいずれかのプロジェクトに参加し、プロジェクトごとの部屋がクラスルームとなる。中学校は3つのプロジェクトグループを子どもたちが創設。そのうち1つは昨年度作られた。担任無しで運営することを子どもたちが決定したそうだ。すごい!いわゆる「先生」という概念は無く、ともに学んでいく大人という位置づけ。先生方も子どもたちからあだ名で呼ばれている。基礎学習の時間もあり、これは学年ごとに学んでいる。
 小学生の授業を見学。木材が多く使われた小学棟に入ると、大きくとられた廊下に屋台が出ている。「おいしいものづくり」のプロジェクトグループがカステラとおしずしを販売している。今日は見学があることが分かっていて、子どもたちが次の活動の資金集めを企図したそう。1つ50円のカステラを2つ使うと、「これ読んでください。」と、カステラの説明が書かれたパンフレットがついてきた。後ろを振り向くと、低学年くらいの女の子が「あっちのほうに席を作ったからそこで食べてね」。座って食べようとすると、「違う、違う。こっちの机。その机はお料理していて汚れているから。こっちの机はふいたから大丈夫。」本物の活動が、子どもたちの動きを自主的にしていく。というよりも、自己選択自己決定が大前提で当たり前にあれば、自主的であることは自然と達成される。「子どもに力があること」を信じ、場を設定すればいいのだ。そのことを実感。お昼ご飯は用意していたが、思わずおしずしも購入。きのくにのマークが海苔で形作られていてかわいい。これにもパンフレットがついている。お米は自分たちで育てたものだそうだ。そういえばてんさいを育てさとうにすることもしていると聞いた。ひょっとしたらカステラについていた砂糖がそれだったのかもしれない。
 クラフトクラブの活動は圧巻。手作りのテラスに屋根をつけようとしていた。屋根の骨組みは完成しており、今日は半透明の強化プラスチックの屋根を骨組みに取り付ける作業のよう。先生と思われる大人はついていたが、特に指示を出しているようには見えない。大きな子も小さな子も入り乱れて作業をしている。作業への取り組み具合は子どもによってさまざまだが、それをとがめる大人はいない。しばらく眺めていると、一人の男の子が説明を始めてくれた。高学年に見える。「明日あれをとりつけるんです。」「すごいな。どのくらいかけて作っているの?」「3カ月くらいかな。」「違うよ。計画を入れれば6月からだよ。」(そういえばクラフトクラブの棚の上には、ミニチュアの試作品のようなものがたくさんならんでいた。)「みんなだけで作っているの?」「もちろんです。」誇らしげに胸を張る。低学年の女の子とも話をした。「みんなすごいね。手に持っている道具の使い方とかはどうやって覚えたの?」「お兄さんが教えてくれた。あっちの屋根もみんなで作ったんだって。それからあの滑り台も。」こんな風に年長の子どもから年下の子どもへ知識、技能、経験が伝達されていくのだろう。本当にすごい。
 2階の新聞社では、営業部長と呼ばれる中学年くらいの男の子が「無料です!」と大きな声をあげて新聞を配る。頼んでもいないのに、自らの活動について、模造紙に大きく書かれた手作りの絵地図の前で、意気揚々と数人の初対面の大人の前で語り出す。彼のこの強い個性は、果たしていわゆる普通の学校の中ではどれだけ発揮されるものだろうか。むかしさがしのグループは、本格的な製本機で、製本作業をしていた。どのプロジェクトチームにも大人の姿はあったが、1時間弱の見学の時間の中で、指示や指導をしている姿を見ることはなかった。悪い言い方をすれば「そこにいるだけ」。でも、教員であれば、「そこにいるだけ」であることの難しさは理解できる。学校としての信念がそれを可能にしているのだろう。そして、大人を「そこにいるだけ」にしているのは、子どもたちの実に生き生きとした前向きな姿である。各々のプロジェクトをはつらつとみんなが進めていた。とにかく表情がどの子も明るかった。
この表情を自分が教えた学級で見たことがある。あれは、4年生を受け持ったとき。子どもたちが学級会の話し合いで、1年生を対象とした「お祭り」を企画し、すべて自分たちで進めていたときの表情だ。いつもの授業ではなかなか見られない表情だった。そうか、あんな時間を教育の軸に据えているんだな。
南アルプスはまだ7年ほどだそうだが、出発点となったきのくに子どもの村は25周年を迎えるという。続けることで、一般的には特異に見える教育方法が、学校の文化として根付き、子どもたちや教員にとってはそれが当たり前になっていることを感じた。文化を根付かすことで、きっと様々なことがうまく回っていくのだろう。文化を根付かせる重要性に気づけた。文化を根付かせていくには、根気のほかには何が必要なんだろう。
子どもたちの給食には参加できずに、別室で昼ご飯を食べたあとは、質疑応答。学力不安や卒業後のギャップなどの話。これについてはある程度予想通りの答え。自ら学ぶ力、乗り越える力が着くから大丈夫ということ。
学園長の堀さん到着。質疑応答終了。説明会は終了だが、子どもたちの週1回の全体ミーティングも見学できるということで、居残ることに。
子どもたちの全校ミーティングは、給食をとっていた大きなホールで開かれた。小学校中学校の全校児童に加え、大人も参加する。中学生が2人、椅子に座り進行する。出された議題はけんかやおやつの紛失など3点について。どの議題についても、全校の前で名指しで議論されるのは驚いた。議題が低学年だったことも大きいだろうが、名指しでも全く殺伐としないのは、これも文化のなせることに思った。驚いたのは、小学生中心に進む議論の要所要所で中学生が発言することだ。中学生が小さな子どもたちのもめ事を他人事にせず、ところどころで控えめにだが介入していく。これが効果的に思えた。少し意外に感じたのは、大人の発言も少なくなかったことだ。ただ大人の発言も特別なものでなく、他の子どもと平等に扱われていた。
議論は平行線で、先送りになった。子どもたちの雰囲気を見ていると、よくある流れのように思える。おそらくこの全校ミーティングの意義はもめ事を解決することよりも、共同体意識を持たせることにあるのだろう。また、異学年や大人も混合で話し合うことにより、話し合いの進め方や語彙を増やす意図もあると感じた。「昔は地区会とかでこういうことができていたんだけどね。」という院生仲間のKさんの振り返りが印象的であった。コミュニティの再構築なのかもしれない。

総括すると、南アルプス子どもの村小学校・中学校は私のこれまでの学校観では収まらない学校であった。とられている方法は想像を越えたものであった。しかし、その理念や子どもたちの姿は、私が目指しているものと大きく重なるものだった。

プロジェクトを中心とした学びは非常に参考になった。知識の教え込みに時間を多くとってきた現在の基礎学力とされるもののための学習は、おそらくもっと精選でき、良い効率化ができる。そうすれば、より大胆にプロジェクト型の学習を取り入れることをしていくことができるだろうし、したいと思う。