2016年2月28日日曜日

モンスターペアレントについて




モンスターペアレントという言葉がある。
Wikipediaによれば、「学校などに対して自己中心的かつ理不尽な要求をする親を意味する」ということだ。

教員になってから今まで、保護者に対してモンスターペアレントという言葉を使ったことはない。
そもそも人に対してモンスターという言葉をあてるのは、いくら相手に過失があったとしても失礼だ。
人をモンスター呼ばわりしていいなんて、許されることではない。
そして何より、モンスター呼ばわりしたことで、問題が解決するとは思えない。
むしろ、「人としての常識が通じない」扱いすることで、まるで解決を放り投げている気がしてしまう。
残された子どもはどうなるのだろう。

だから、モンスターペアレントという言葉は好きになれない。

とは言うものの、保護者との対立ということが今まで無かったわけでは無い。
今日は保護者との関係について、振り返りたい。

冒頭の画像は「ルビンの壺」という有名な絵。
黒いところを見れば花瓶だし、白いところを見れば向かい合う顔。
同じ絵でも、見方を変えれば全然違うものになってしまう。
僕は保護者と教員の意見の相違は、このルビンの壺のようなものと考えている。

教員をやっていると、どうしても保護者と意見がすれ違ってしまうことがある。
「うちの子、おとなしいでしょう…学校でちゃんと自分の気持ちを出せているか心配で…」
なんて言われている子が、学校では気持ちを出しすぎて、周りへ迷惑をかけていることもよくある話だ。
「○○くんにいじめられているって言っているんです…」と言うが、教室で見ている限り、どう考えても逆に映るということもある。
こういう時に、こちらの意見を伝えても、うまくはいかない。
今より経験が浅いころは、どうして分かってくれないんだろうとか、伝わらないなあと悔しくつらい思いをしていた。

曲がりなりにも10年以上教員をしてきて、ようやく分かってきたことは、同じ子どもを見ていても、教員として見るのと、親として見るのでは、見えるものは違ってくるということ。そう、まるでルビンの壺のように。
そして、そういう時に、どっちの見方が正しいかを戦わせるのはナンセンスだということ。
それよりも、お互いに見方が違うことを確認したうえで、どうやったらその子が気持ちよく毎日を過ごして、成長できるかを話し合っていくことが大切だということ。

「分かっていない。伝わらない」という気持ちを、おそらく保護者のほうも思っていたんだろうなあ。
そういう風に相手に自分の見方を押し付けようとすると、下手すると、本当の主役であるはずの子どもが置いてきぼりになってしまう。
ひょっとしたら、子ども本人は、教員の見方でも親の見方でもなく、自分の見方で自分を捉えているだろうから。

若いころはそれが分かっていなかった。自分は教室で子どもを正しく見られて、捉えられていると考えていた。
たまに保護者から言われる「本当に先生はよく見てくれていてありがたいです。」なんて言葉に自信を増していた。
だから、保護者と子どもの捉えがすれ違った時には、心の中で「分かってないなあ。」とか思ってしまうこともあった。
タイムマシンがあるのならば「分かってないのはお前だ、青二才」と伝えたい。

保護者との意見の相違をルビンの壺だと考えられるようになってからは、見方の違いを埋めていくよりも、目標の一致点を探そうとするようになった。
目標の一致点は明確だ。「子どものより良い成長」。これは保護者も自分も一致して取り組める最大の目標だ。
今その子はどう伸びようとしているのか、そのために担任として何ができるか、家庭は何ができるか。
目標へ向かうための、お互いの道筋を話し合うという視点を持つようになった。
そういう意識を持つようになると、保護者とぶつかることも減った。
同じ目標のために力を合わせる同志なのだから、意見の相違はあっても、ぶつかる対象ではないのだ。
初めに戻れば、同志にモンスターなんて、口が裂けても言えないはずなのだ。

そんな風に保護者との関係は考えている






…んだけど、最近の親による子どもの虐待などの悲しいニュースを目の当たりすると、「子どものより良い成長」という目標すら、当たり前のこととできない場合も多々あるんだろうと感じる。
自分が今まで会ってきた保護者は、その目標を共通にできたのだけれど、それは恵まれていただけなのかなとも思う。
その目標が共有できなかった場合、自分はどうしていくのか…考えてみたい。ひょっとしたらモンスター呼ばわりして、問題を放り投げてしまうのかもしれない。