2016年4月30日土曜日

教えることを手放す教師




写真は愛する4歳の息子である。寝る前の歯みがきの時間だというのに、トミカの道路を組み立て始めた。
「早く寝かせて」という妻の強い視線を感じながら、しばらく様子を見ていた。

このトミカの道路、トミカシステムという規格で、実によくできている。
灰色の道路と黄色い道路の2種類が主となる。灰色と黄色い道路、それぞれ直線と曲線のものがある。
黄色い道路がポイントとなる。この道路を一つ使うと、緑の橋脚一つ分、高さが変化するのだ。
橋脚にも2種類あり、緑の橋脚は黄色い道路1つ分の高低差を支え、茶色い橋脚は緑の橋脚4つ分もしくは8つ分の高低差を支える。
このほか、我が家では、橋脚3つ分の段差のあるジャンプ道路と、8つ分の段差のある急坂がある。
言い忘れたが、黄色い曲線道路は裏にLの刻印のある左回りのものとRの刻印のある右回りのものがある。

お分かりいただけただろうか。
お分かりいただけていないのではないだろうか。
子ども向けのおもちゃながら、なかなか複雑なのである。

初めてこのおもちゃを手にした息子は、当たり前だが、これを組み立てることはできなかった。
ただ、壊して分解することにはずいぶん早くから天賦の才を見せつけ、妻が組み立てたそばから、彼は分解を始め、あげく車を走らせられなくなり、泣き出していた。自業自得である。

父親である私は、初めから仕組みを理解することを放棄し、たまに組み立てるものは、灰色の道路だけを使ったぺったんこの一周道路のみであった。
すぐに息子は私に組み立てを頼むのをやめた。
自立を促す教育者らしい対応である。

初めのうちは父親ゆずりの単純な道路しか組み立てられなかった息子だが、
半年を過ぎたあたりで、気が付くとトミカシステムマスターにと成長していた。
伊豆の河津七滝ループ橋のようなぐるぐる道路から、途端に急な坂に突入するような、
実際にあったらいやがらせとしか思えないようなアクロバティックな道路をいとも簡単に作るようになっていた。

妻も私も特に作り方を教えたことはない。
つまり、彼は自ら試行錯誤の中で、複雑な仕組みを学んだのだ。


「すべての人は有能である。」
これは昨年大学院で学んだ最大のことである。
もう少し言葉を変えれば、「すべての人は学んでいく力を持っている」と言えるだろう。
それを、もっとも身近な存在から教えられ、実感した。

ただ、それをすぐに学校教育に置き換えることはできないだろう。
息子がトミカシステムをマスターしたのは、それが彼のやりたいことだったからだ。
学校教育では、学ばなくてはいけないことが決められており、やりたいことだけを学ぶことは許されない。
だからこそやりたくないことは、私たち教師が教えていかなくてはならない。
教師がいる理由はそこにある。



でも、本当にそうだろうか。



私たちが、学ばせなくてはならないことを、手を変え品を変え、努力しながら教えこんでいくことで、もしかしたら、子どもたちが本来持ち合わせている自ら学び取っていく力を損なわせているのではないだろうか。
そもそも「私たちが教え込んでいること」は「自ら学び取っていく力」よりも大切なことなのだろうか。
もしかしたら、自ら学び取っていく力をこれまで以上に尊重することができたら、私たちが教え込んでいることさえも、彼らは学び取っていけるのではないだろうか。

最近はそんなことを考えながら授業を構成している。
教えることを手放し始めている。
教えることより、学び取る力を尊重し、さらに引き出せないかと模索している。
教師(教える師)ではなく、スタンドバイミー師になろうかなと思うのだ。

スタンドバイミー師、流行らないかな。流行らないだろうな。


2016年4月1日金曜日

人の力を信じる

4月になってしまった。新年度。
3月の後半には職場に復帰していたので、「今日から!」なんて感じは無いのだけれど、でも、学生で無くなってしまったのだなと改めて思う。

建前上は、昨日まで、東京学芸大学教職大学院の学生だった。
教職大学院というのは、教職に特化し、理論だけでなく実践を重視した専門職大学院で、その特徴は学部から直接大学院に進学する学卒生と、教員として現場である程度の経験を積んだ現職院生がともに学ぶところにある。
自分は現職院生として、1年学んだ。

院への進学を決めたのは、2つの理由がある。
1つは学校をよくしたいと思ったこと。もう1つは自分自身が成長したいと思ったことだ。

30も半ばになり、クラスだけでなく、学校全体を、子どもたちにとって幸せな場にしたいと思うようになった。
そう書くと、なんだかきれいだが、ここには書くことがためらわれる、もっと後ろ向きのぐじぐじした思いがあった。
私立学校の良いところは、異動が無いために、その学校に「自分の学校」という意識を強く持てるところだ。
僕は自分の学校をもっと良いところにしたいと思った。でも、思いがあっても、その方法は分からなかった。そりゃそうだ。今まで良い先生になる勉強はしてきても、良い学校を作る方法は誰も教えてくれなかった。
それを学びたいと思った。

そしてもう1つ。働きはじめて10年を過ぎたあたりから、自分の成長を感じることが少なくなってきた。
新任から数年は、とにかく無我夢中で、手あたり次第やりたいことをやって、うまくいったり失敗したり、試行錯誤の連続だった。
そのころは、自らの成長を実感することが多くあったように思う。
でも、ここ数年は、自分の中に煮詰まり感を持つようになっていた。
それは、日々の忙しさの中で見ないようにすれば気にしないこともできたのだけれど、常に胸のつかえになって、しかもだんだんと大きくはっきりと自分の中に居座るようになっていた。
「このままでいいのか。」「同じことを繰り返しているんじゃないか。」「うまくいく方法だけを選んで、小さくまとまっているんじゃないか。」「そんな人間は魅力的と言えるのか。魅力的でない人間が、これからを生きる子どもたちの前に立つって、そんな不幸はないんじゃないか。」
煮詰まり感は、そんなことをつぶやいて、自分を苦しめた。
僕はそれを打破する、何かきっかけがほしかった。

それでも院に行くという決断は勇気のいることだった。
仕事では、それなりに責任のある仕事を任されるようになり、特におととし、院に行く前年に大きな仕事を任されていた。
慣例では3年程度やるべき仕事を投げ出すことは異例であり、無責任にも思えた。何より、そうしたときの周りの反応が恐かった。
それに、教員になってから12年、クラスの子どもたちのためにひたらすらに打ち込んだ自負はあったが、その反面、研究会などへの参加は皆無で、つまり勉強への自信は無かった。
さらに、院への進学となると、もちろん試験がある。
ただでさえ6年生担任で忙しく、それ以外に大きな仕事が任されていて、とてもじゃないが試験のための準備の時間はとれないように思った。

院に行くことを考え始めたのは、今から3年前だったが、そんな理由があり、一時は進学をあきらめようとも考えていた。
勇気が萎えてしまったのだ。

それでも、結局院に挑戦することにした。なぜか。やはり前述の2つの理由が大きい。このまま何も変わらずに仕事を続けることは、何か欺瞞を抱えたままのようで、その後ろめたさが、自分の背中を押した。
妻の応援も大きかった。
「迷ってるなら、行きなよ。行かなかったら後悔するんじゃない。」
そう言ってくれた。


そして、院に進学することができ、1年学ぶことができた。
本当に素晴らしい1年だった。
院に来て良かった。散々迷って決めた進学だったが、今は院に進学しなかった自分を想像できないくらい、意味のある大きな大きな1年だった。


学んだことは多くあるが、1つだけあげるとするなら「人の力を信じる」ことになるだろう。
人は学ぶ力があり、成長していけるし、していこうとするものである、そう学んだ。

これまでも、子どもの力を信じて授業をしてきたつもりだった。
でも、そんな自分のやってきたことが、うわべだけに留まっているように思えるほど、もっと追求できるのだと、今年知った。

学習の個別化という考え方を初めて知ったときは驚いた。
これまで自分のやってきた、いわゆる一斉授業では、教員が黒板とチョークとトークで、子どもたち全体に説明をし、それをもとに子どもたちが同じ課題に取り組むという形をとってきた。
30人を越す子どもたちに、効率よく学ばせるためには、その方法が良いと考えてきた。
というよりは、その形態を疑ったことがなかった。
もちろん、中には一斉授業では身につかない子がいるので、別の時間に個別に教えることもしてきた。ただ、基本的には一斉授業で身につけてほしいので、いかに分かりやすく、いかにひきつけるか、そういう授業を目指してきた。
それなりにそういう授業ができるという自信もあった。
学習の個別化は、そういった自分の考えとはまったく違う発想であった。
そもそも、子どもの理解のペースや学びの仕方それ自体も、個々で様々なものである、ということが前提にある。
その前提に真摯に立てば、子どもたちに一律のペースでの理解を強いる一斉授業が、いかに矛盾に満ちたものか分かるだろう。
個別化は、一斉授業を限りになく縮小し、そのかわり、子どもたちが個々のペースで学ぶことを保障していく。
教員は、その単元で子どもたちが身につけるべき内容をある程度の段階をもって示し、その段階が教科書などのどの部分に当たるかを伝え、単元にさく時間を明示する。
あとは子どもたちに学びは任せられる。
ペースの速い子(あえてできる子とは言いたくない)はどんどん進んでいく。遅い子はゆっくりと進んでいく。
それでも、子どもたちの間に確かな信頼があれば(これが個別化の成功の大前提だと思う)、遅い子の「教えて」の声に、先に進んでいる子が寄り添ってあげられる。遅い子が助けられる一方で、教える側の理解も教えることによって深まっていく。
こうして今まで教員の担ってきたことが、子どもたち同士の協働の中で担われていく。
また、一斉授業に時間を割かなければ、教員も子どもたちの支援にこれまで以上に丁寧に取り組むことができる。
子どもたちはそれぞれのペースで、しかし確実に目標に向かって学んでいくという。

初めて個別化の話を聞いたときは、そんなのうまくいくはずがないと思った。
しっかりと頭の中で検証をする前に、反射的に否定をした。
それは、自分のこれまで行ってきた授業を否定することになるからだ。
しかし、恐る恐る頭で検証し、さらに授業の様子を本や映像などで知っていくと、次第に考えが変わってきた。
様々な驚きがあったが、何より驚いたのが、信じて任された子どもたちが、自分から学んでいくという姿だった。
自分は本当に子どもたちの力を信じていたのかと問わずにはいられなかった。

院での学びでは、このように、それまで自分が疑わずにやってきたことを、立ち止まって「それの意味って何?本当に目指すべきことってどんなこと?」と問い直す機会が多かったように思う。
そういう機会を、たっぷりの時間の中で、同じような立場の人たちの中で持つことができて本当に良かった。

学習の個別化から始まり、「子どもたちの力を信じる」ことを信念として持ちそれによって成り立つ教育をたくさん学んだ。そして学校を良くする方法も、「教員の力を信じる」ことにあるのではないかと考えるようになった。
人は信じられることで、力づけられるのだ。
そんなふうに考えていくと、これまでの教員の中での自分の振る舞いを反省するようになった。僕は周りを信じてきたのだろうか。信じ、力づけてきたのだろうか。むしろ、周りを信じず、マイナス面ばかりを指摘し、悪い緊張感を与え続けてきたのではないだろうか。そのことが、周りの成長を邪魔してきたのではないだろうか。そんなふうに気付いたときは、苦しかった。
でも、きっとまだ遅くない。そう考えたい。

まとまらなくなってきたので、もう終わるが、とにかくこの1年で「人の力を信じる」ことから始まる教育を学ぶことができた。
まずは今日からの1年。僕は「人の力を信じる」ことをやってみようと思う。もちろん、1年間の学びを活かし、「人の力を信じる」ための仕掛けや、「人の力を信じる」ことを土台とした試みをやっていこうと思っている。
それが子どもたちのより良い成長につながっていくと考えている。
そして、子どもたちのより良い成長は、より良い社会や世界を作っていくと考えている。
そう、僕の仕事は世界を作っていくことに確かにつながっているはず。
それを思うと、改めてやる気が出てくる。
新しい1年、がんばっていきたい。
(より良い成長やら、より良い社会、世界についても、ぐじぐじ考えていることがあるので、またの機会に。というか、このブログは続くのだろうか。)