2018年3月19日月曜日

大切な弟、妹たち バングラデシュのこと④

これまで3回バングラデシュのことについて書いてきた。
本当は1回で書き切るつもりだったんだけど、思い出すと、想いがあふれ出してしまって、どうしても長くなってしまう。
今から15年前、22歳の時の旅。
自分にとってとても大切なことなんだと思う。


これまで書いてきたこと
第1回 「初めてのバングラデシュ」
第2回 「チッタゴンヒル子ども基金」
第3回 「笑顔の美しい少女」


モハルチョリで焼き討ちにあった村に行ったこと、それからそこで暮らす人たちを見たことは大きなショックだった。
自分とはまるで違う日常を過ごす人たちを目の当たりにした。
そしてシュンドリと出会った。
彼女は笑っていた。
それは素敵な笑顔だった。
それが余計に胸を締め付けた。

僕はここにいていいのだろうか。
もっと確固たる何かがあってこそ訪れる場所だったのかもしれない。
どうしていいか分からなくなっていた。

シュンドリの住む村を出たバンは、この旅のもう一つの目的地へと向かっていた。

山道をバンは走る。
道のあちこちに、軍のキャンプが見える。
小さなものだが、そこに銃を携えた兵士が見える。
これだけの数の軍のキャンプがあっても、この場所に平穏は無い。

バンの車窓からは、ベンガル人の住む家も見えた。
それは道沿いに急に現れた。
本当に粗末な家だ。

ジュマから土地を奪おうと新しくこの地に入ってきたベンガル人たちは、みな貧しく見えた。
身体は痩せ、たいていもっと痩せた子どもを連れていた。
そういえば、この土地に入ってくる人たちは、都市のスラムに住んでいたような人たちも多いと聞いた。
首都ダッカにはいくつかの有名なスラムがある。
「ダッカ スラム」と検索すれば、すぐにその様子は見ることができるだろう。
その光景は、あまりに悲惨だ。
貧しい田舎の村よりもずっと、都市のスラムのほうが目をそむけたくなるような、苦しい貧しさが渦巻いている。
そう、ジュマから土地を奪おうとする入植ベンガル人たちも、生きるために必死なのだ。

山道を走り続けるバンから見えるそんな風景に、僕はもう考えることを放棄したくなっていた。
何のために僕はここにいるんだろう。

途中で、車を乗り換えた。
ぼろぼろのジープのような無骨な車に荷台がついている。
急な坂道には、うなりながら登っていく。



ようやく着いたプルナジョティは、小さな小さな村だった。
茶色い乾いた山道と周りは緑の木々に囲まれた場所。
下り坂に挟まれた道路の途中から、細い道が伸びていて、車を降りてそこを登っていく。
道の脇から小さな青い服を着た小学校低学年くらいの子どもたちがのぞいている。
「ジュージュー。」
土地の言葉であいさつをすると、ちょっと驚いた表情を浮かべ、そして、しばらくあとに笑顔になった。
距離を測っているのか、様子をうかがっている。
かわいらしい。



細い道を登りきると、小さな広場に出た。
正面にはトタンでできた簡素な寺院。
寺院の両脇には、トタンの屋根に木の皮の壁でできた建物が2つ並んでいた。

長い移動時間の疲れをうったえると、お寺のお堂の脇の小さな部屋に通してくれた。
ベッドがひとつと窓がひとつあるだけの4畳ほどの部屋だ。
壁の小さな窓からささやき声が聞こえる。
手に花束を持った女の子がのぞいていて、窓枠のすきまからそれを差し出してきた。
きれいな花束だった。


ここが、プルナジョティ。
日本で会ったセカさんが、居酒屋でバイトして稼いだお金で建てた寺子屋だ。
小学生にあたる65人が寄宿しながら過ごしている。
親がいない子もいるが、それだけではない。
貧しいこの村では、小学生の年になると、もう立派な労働力と見られる。
寄宿舎にし、衣食住を保障することで、ようやく親は子どもを学校にやろうと考えるのだという。
だから、この学校にいる子どもたちは、学べることを喜ぶ。

そこで、4日間過ごした。
それはおだやかでやさしい時間だった。
ニワトリが高らかに鳴く声で目が覚める。
部屋から広場に出ると、寄宿舎から出た子どもたちがドラム缶のたき火に集まっている。
村の大人も何人かいて、会釈を交わす。
人懐っこいミタリが僕に近づいてくる。
ミタリを抱っこすると、他の子たちも抱っこをせがんでくる。
日本の子どもたちといっしょだ。
違うのは、彼らが一様に痩せぎすなことか。
抱っこをする手に、あばら骨があたる。
顔を洗いに、坂を下って、道の向こうにある井戸にいく。
子どもたちがついてくる。
デボラニが井戸から水を出してくれたので、それで顔を洗う。


朝ごはんは昨日の残りのダールという豆カレーとごはん。
ごはんは大盛り。カレーは小盛り。ごはんでおなかを満たす。
朝ごはんを食べたあとは、鬼ごっこをする。
「アミ ベンガルタイガー!(俺はベンガルトラだぞ!)アミ トマケ カボ!(お前を食べてやる!)」
正しいかは定かでない怪しいベンガル語をさけびながら子どもたちを追う。
笑い声をあげながら子どもたちが逃げ惑う。
シュンドリ(あの村の女の子と同じ名前だった)はこれが大好き。
朝の冷え込みが嘘のように暑くなるから、すぐにばててしまう。
「ベンガルタイガー!」子どもたちにせかされて、重い腰を上げてまた追う。


昼過ぎに市場へ行った。
田舎の小さな市場では、イスラム国のバングラデシュでは初めて見る豚肉が売られていた。
生きていたときのそのままの見た目で売られている豚肉をいくらか買っていく。
ハエがたかっているけれど、このころはもうそんなこと気にならなくなっていた。
子どもたちと食べたい。

市場ではロープも買った。
プルナジョティに戻り、子どもたちに大縄を教える。
縄を回さずに、地面で行ったり来たりさせる大波小波でも大興奮だ。
その様子にうれしくなる。


電気がきていないので、夜はランプの明かりが頼りだ。
子どもたちが教室でもあり食堂でもある場所に集まる。
いっしょに食事をとる。
右手でカレーとご飯を混ぜる。
豚肉は、日本のものとはまったく違って脂身が固く、かみきれない。
味は悪くない。ただ固い。皮を噛んでいるみたいな感じ。
でも、おいしい。
隣の子に笑いかけると、彼女もうれしそうに笑う。


指で歯をみがいて寝る準備をする。
マラリア蚊がいるので、蚊帳に入る。蚊帳には3人くらいの子どもが一緒に入る。
狭い部屋なので、体を寄せ合っている。
それがとてもかわいらしい。
遠慮がちだったことが嘘のように、笑いかけてくる。
日本語で「おやすみ」と言う。
伝わるはずはないのに、何か言葉が返ってくる。
きっと彼らの「おやすみ」だと思った。


プルナジョティでは、とにかく子どもたちと過ごした。
それは幸せな時間だった。
どうしていいか分からないままここに来たが、僕は彼らと過ごす時間がとにかく楽しかった。
彼らもまた楽しそうだった。
だから、お別れのときが来たとき、「アバールデカホベン!」と大きな声で行った。
「また会いましょう」という意味だ。
自分に何ができるかは分からなかった。
でも、この子どもたちにまた会いに来たいと思った。



彼らもまた暴力にさらされていた。
この地域もまた、入植者による暴力が日常にあった。
それでも、子どもたちは笑顔だった。
悲しい現実に慣れている子どもたち、僕は彼らが好きで好きでたまらなくなった。
助けなきゃいけない、そういう使命感ではなく、大好きな彼らの力になりたい、また会いたい。
そんな気持ちが芽生えていた。

日本に帰ってから、チッタゴンヒル子ども基金の活動を通じて、彼らの寺子屋を支援した。
そこに集まる人たちから刺激的に学んだことは書ききれないほどある。
また、何度も彼らに会いにいった。会うたびにミタリやシュンドリは成長していった。
新しい子どもたちとの出会いもあった。
やっぱり悲しい現実を何度も目の当たりにした。
20代の大切な記憶だ。

その後、電気、ガス、水道も無い辺境の少数民族の寺子屋から大学にすすんだ子が出た。
村の寺子屋だったプルナジョティは、今は国の認可を受け、支援がなくとも運営ができるようになっている。
2003年
2010年

でも、彼らを取り巻く環境は、あまりよくなっていないようだ。
もしかしたら悪化しているのかもしれない。
問題の根源は解決されないままでいる。(http://www.jummanet.org/

僕は、自分自身の状況の変化から30代になってからは現地に行くことができていない。
子ども基金の活動も、実は悔やむことも多い。
後ろめたさから、今まで振り返ることをどこかで遠ざけていた。

でも、こうして振り返ってみると、本当に自分にとって大切なこと(思い出とは書きたくない)だと気づく。
彼ら、彼女たちが自分にとても大切な人だと思う。
支えていたつもりが、彼らの存在に助けられていた自分に気づく。

うまくまとめられないんだけれど、ここでいったん、バングラデシュのことを書くことは一段落にしたい。
チッタゴンヒル子ども基金のワイルドなお兄さんたちの話や、成長していく子どもたちの話とかもっとたくさん書けそうだけれど、新しい話ができることをめざしたいとも思う。

ずっと読んでくださった人、どうもありがとう。
誰かに知ってもらいたかった話でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿