2018年3月7日水曜日

笑顔の美しい少女 バングラデシュのこと③


写真の少女の名前はシュンドリ。
ベンガル語で美しいという意味だ。
その名の通り、かわいい笑顔の少女だった。
この笑顔の少女が、15年近く経つ今でも忘れられない。
それは、心が握りつぶされるような痛みを感じずにいられなかった笑顔だったからだ。

15年前に書いた旅のメモを頼りに、あの時のことを書き記したい。




大学でのワークキャンプをきっかけにバングラデシュに縁を持ち、就職してから再びボランティアを始めた。
バングラデシュのチッタゴンヒルの寺子屋支援を目的とする活動だ。
仲間と集めた支援金を持ち、いよいよ実際にチッタゴンヒルに旅立つ日がやってきた。

旅立つ前に、この地域が抱えている問題について自分なりに知ろうとした。

チッタゴンヒル、そこはバングラデシュの南東部、インドとビルマに隣接する位置にある。
バングラデシュは「山のない国」と言われるほど平野が多い国であるが、そこは例外で、ビルマのアラカン山脈に連なる丘陵地帯である。
国土の約10%の面積を占めるこの地域は、地理・歴史・民族・宗教・文化などすべての面において、人口の大多数を占めるベンガル人がくらす平野部と大きな違いがあった。
チッタゴンヒルに暮らすのは、ジュマと呼ばれる複数の少数民族から成る集団である。
浅黒く、ほりの深い目鼻立ちがしっかりとしているベンガル人にくらべ、ジュマの人々はモンゴロイドであり、その顔立ちは日本人にとてもよく似ている。
多くは熱心な仏教徒であり、この点でもムスリムであるベンガル人とは異なっていた。
英領統治時代には、この地域はジュマによる自治権が認められ、ベンガル人の入域は規制されていた。
しかし、1971年、それまで東パキスタンと呼ばれていた地域が独立戦争の結果バングラデシュとなるや、政府によるジュマへの迫害とチッタゴンヒルのベンガル化政策が始まった。
人口爆発を起こしている平野部の都市からチッタゴンヒルへ、ベンガル人の40万人入植計画が進められ、それに抵抗するジュマを抑えるために10万の軍隊が駐留することとなったのだ。
その結果、先住民族であった多くのジュマが土地を奪われていった。
それに対し、ジュマは武器を持って抵抗し、政府軍との長い内戦が始まることとなった。
政府軍は抵抗の報復として、一般の村民を襲撃、虐殺した。
拷問や女性への性的虐待は日常的に行われた。
恐怖に駆られた人々は、土地を離れ山岳を逃げ惑い、国境を越えてインドへ逃れた。
インドへ逃れた難民約七万人、国内難民十数万人、死者三万人と推定される。
このような暴力により、さらに多くの土地がベンガル入植者のものとなっていった。
1977年、ようやくジュマと政府の間に和平協定が結ばれ、戦争状態は終結を迎え、ジュマは武装を解除した。
しかし、政府は協定の柱である土地問題の解決と軍キャンプの撤収を履行しなかった。
多くの土地は入植者と軍隊に占拠され続け、行政権は軍が実質的に握り、現在も不法な入植者が途絶えることなく流入している。
こともあろうか、そのような不法入植者に対し、政府は食料の配給という支援を行っている。
ジュマの人々は恐怖の中で日々を暮らしている。

あまりに悲惨な状況だ。
そんなところに自分は今から行こうとしている。
正直、実感はわかなかった。
内戦や略奪、暴力。あまりに自分の日常とかけ離れていた。

首都のダッカから、深夜バスに乗り、2つある目的地のうちの一つ目、PBM(丘陵仏教伝道会)という寺子屋へ向かう。
朝方、寝ぼけ眼をこすりながら、迎えのおんぼろのバンに乗り換える。
舗装されていない道にバウンドしながら土煙を大きくあげ、バンは進む。
しばらくすると、バンが止まった。
やっと着いたかと、車から降りると、なんと大きな銃を持った2人の兵士にはさまれた。
バンの運転手が大声で兵士に何かを伝えながら、書類らしき紙を手渡す。
どうやらチッタゴンヒルの滞在許可書らしい。
チッタゴンヒルの奥地に外国人が入るには、警察の許可が必要だとは聞いていたが、まさか銃を携えた兵士に確認されるとは思わなかった。
自分が特別な地域にやってきたのだと分かり、眠気がいっぺんに覚めた。

第一の目的地のPBMは寺子屋という響きから想像していたものより、ずっと大規模であった。
地域の精神的リーダーである僧侶スマナランカールバンテが1980年代に始めたこの寺子屋には、その時小学生くらいから高校生くらいまで、180名ほどの子どもが学んでいた。
そのうちの半分の子どもは、片方もしくは両方の親を亡くしていた。
衣食住の世話をしてやらなくては、就学など考えられない子どもたちであり、この学校は寄宿制であった。

PBMで暮らす子どもたち

ちょうど子どもたちのお昼ご飯の時間ということで、いっしょに食べることにした。
子どもたち全員が食堂に集められ、昼食の時間が始まる。
今日の昼食は、少し苦い緑色の小松菜に似た葉が入った具が1種類だけのカレーが少々。
それから、これもちょっとの豆のスープ。
それに大盛りのご飯。
この昼食と、ほぼ内容の変わらない夕食、その2回の食事が、ここの子どもたちの1日のすべての食事であるという。
周辺住民の寄付や他国のNGOによる寄付でなりたっているPBMは慢性的な運営資金不足に悩まされている。
そのため食事は1日2回に限られてしまう。
そういえば、食堂を見渡してみても、太った子どもは一人も見当たらなかった。

野菜のカレーと豆のスープ

昼食後、若い僧侶に頼んでバザール(市場)に連れて行ってもらった。
僕は、今回こども基金に集められたジュマへの寄付のお金を預かっていた。
寄付のうち一部は、自分の判断で使っていいことになっている。
それを子どもたちの今日の夕食を豪華にするために使おうと考えた。
その考えを僧侶に話す。彼も賛成してくれた。
さっそくバザールで鶏肉を購入し、野菜を何種類か買った。
180人の夕食1回分の食材費は、日本円にすると、5000円もかからなかった。
それでも彼らにとっては、信じられないような豪華な食材だという。
なぜなら肉を食べられることは、年に数回あるか無いかのことらしい。
それを聞いて、まだ資金には相当の余裕があることを伝え、もう少し他の肉を買い足すことを提案した。
すると彼は「それはしなくていい」と答え、その後にこう続けた。
「贅沢の味を知ってしまうことは、子どもたちにとって、幸せなことではないんじゃないかな。」
僕は、自分の考えの浅さに情けなくなってしまった。
子どもたちはいつもより豪華な夕食、つまりカレーが2種類もあることに驚き、喜んでいた。
彼らが1度でも日本の食事を体験したら、いったい何を思うのだろうか。


バザール 商売はベンガル人がほぼ独占する

子どもたちにとっては豪華な夕食

夕食後、僕は自分が与えられた部屋に戻って休んでいた。
そこは彼らにとってもっとも重要な仏様が鎮座するお堂の奥に位置する小さな客間だった。
しばらくまどろんでいると、なにやらお堂のほうが騒がしい。
そっとドアを開けてのぞくと、PBMのほとんどの子どもがお堂に集まっていた。
PBMで唯一お堂にだけ置いてある、テレビを見るために集まったらしい。
100人を超す子どもたちが一つの部屋に集まり、14型テレビの小さな画面を寄り添いあって見ていた。
それは優しい光景だった。
テレビを見る時間が終わったのだろう。
電源が切られると、子どもたちは今度は一斉にバンテのほうを向いた。
静かに子どもたちに向けて話し始めるバンテ。
残念ながら話の内容は、僕には分からなかった。
ただ、バンテの話し方は、とても穏やかで優しく、子どもたちを包み込むようだった。

奥のほうにテレビがある

翌日、モハルチョリという場所に案内された。
4カ月前(2003年8月)の夜から、2日間に渡って、この地域のジュマの村10ヵ村が、ベンガル人入植者と軍隊によって襲撃された。
放火された家屋400軒、被災者2000人、2名殺害、女性へのレイプ10数件、行方不明者数名、そんな事件がおこった場所だった。
モハルチョリ郡の村に向かう途中には、たくさんの軍隊のキャンプを見かけた。
何度か車を止められて、身分証明を求められた。
和平協定では、彼らはこの地域から撤退することになっているはずなのに…
話が本当なら、彼らは暴力を抑止しているのではなく、むしろ加担しているのだ。

訪れたレムチョリ村では、ほとんどの家に火がつけられたという。
焼け跡の上に新たな家が建てられていたが、それは家と言うより、小屋と言ったほうがイメージが伝わる建物だった。
そういえば、途中立ち寄った、インドからの帰還難民を収容するディギナラ難民キャンプでは、8畳ほどのせまく家具も何もない部屋に2家族・計7人が暮らしていた。

村のあちこちに見える焼け跡

焼け跡に建てられた新しい家

事件から4ヶ月が経っていたが、どこもかしこも焼け跡だらけで、深刻さを物語っていた。
そんなひどい状況の土地を離れることも彼らはできない。
なぜなら他に暮らすことのできる土地はないから。
彼らは焼き討ちにあっても、そこで暮らし続けるしかないのだ。
村を回っていると、一つの焼け跡の前に村人が集まっていた。
一人の初老の男性が深刻そうな顔で話を始めた。
話によると、その焼け跡は寺院があった場所らしい。
ベンガル人入植者たちは、ジュマの人々の心の拠り所であった寺院を燃やし、仏像の首を切って、粉々にしたという。
興奮した様子で語っていた男性は、僕を見据えてこう言った。
「どうか寺院を再建してくれないか。」
僕は何を言っていいのか分からなくて、ただただ黙ってしまった。

仏像があった場所を説明する男性

このレムチョリ村を襲撃した犯人は一旦逮捕されたものの、すぐに釈放されたため、この村の人々は今でも悪夢の再現を怖がっていた。
村の見学を終え帰ろうとする僕を、村の人々が囲んだ。
口々に僕に話しかけてくる。
「この村を救ってくれ。お前は日本人なんだろ?」
真剣な顔で嘆願してくる人々の眼差しがつらかった。

次に訪れたバフパラ村では、もの珍しさからか、一人の女の子がちょこちょこと僕の後を着いてきた。
名前をシュンドリ(美しい)という、名の通り、かわいい笑顔を絶やさない子であった。
うれしそうに僕にベンガル語でしゃべりかけてくる。
ほとんど分からなかったけれど、シュンドリの笑顔に誘われて、僕も笑った。

いつの間にか前を歩くシュンドリに連れられ、彼女の家に行った。
そこは4ヶ月前の事件を鮮明に想像できる有様であった。
このバフパラの村は、ジュマの中では裕福な人が多く、シュンドリの家もそうであった。
そのため、一般のジュマの家が厚い木の皮であまれたシンプルなものであるのにくらべ、シュンドリの家はコンクリのようなもので作られていた。
この村を襲った入植者たちは、村の家々に火をつけたが、焼け落ちなかったシュンドリの家は、そのかわり中の家具をめちゃくちゃにされていた。
本当にすみからすみまでをめちゃくちゃにされていたのだ。
シュンドリの家の中には壊れた家具の残骸が今も残っていた。
まさか、こんな笑顔の子の家がこんなになっているなんて。そんなこと想像していなかった。



ぼろぼろにされたシュンドリの家

家の外では彼女のお父さんが、残った家具の木々を集めて、新しいベッドを作っていた。
彼女はお父さんを指差し、僕にうれしそうに紹介してくれた。
言葉がやっぱり分からなかった。この時、彼女は何と話していたのだろう。

バフパラ村を出発するバンを、シュンドリはいつまでも笑顔で手を振って見送ってくれた。
焼け焦げた家の前で。

シュンドリは焼き討ちの日、どこへいたのだろうか。
恐怖のまま逃げていたのだろうか。
憎悪のかたまりのような、迫ってくる略奪者を見たのだろうか。
めちゃくちゃにされた家を見たとき、何を思ったのだろうか。
それでも行くところもなく、その家で再び横になり眠る夜に、いったい何を考えたのだろうか。

なぜ彼女はあんなにも笑顔なんだろうか。

なぜこんなことが起きているのだろうか。

僕はどうすればいいんだろうか。僕はいったいどういうつもりでここにいるんだろうか。

分からないことばかりだった。
自分から望んできた場所だったのに、すぐに逃げ出したいような気持だった。
胸が痛くて痛くて苦しかった。
つらくてつらくて、でもどうしたらいいか分からなかった。

別れ際のシュンドリとの1枚






あれから15年経った今も、シュンドリの笑顔を思い出す。そのたびに胸が痛む。
そして今も、ジュマの人々は暴力にさらされ続けている。
ジュマネット ジュマの支援を行う団体)

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